『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』

『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』
筑摩書房
大屋雄裕

読後の感想
提示された選択肢の中から「自由に」選択肢を選んでいるように見えるが、その選択肢以外の選択はできない場合、果たしてそれは自由と呼べ得るのか、などと考えてしまいました。まさに憲法論の場面で出会う問題意識ですね。概念の説明として、現実の事例を挙げているのは分かりやすさと事態の深刻さを醸し出していて非常に良かったです。

印象的なくだり
この世の中に現実に存在する一人ひとりの個人は、本当に自分自身で自己の生き方を決定し、それに対する責任を負いうるような存在なのだろうか。むしろポストモダニズムの論者たちが指摘するように、自分自身の運命の主人公であるような「個人」など本当はどこにもいないのであり、そうあることを目指すべきだちうお説教はロマン主義の残滓に過ぎないのであり、それを前提にした法システム・政治システムは無根拠で恣意的なでたらめに過ぎない、とすら思えてくる(P017)。

十九世紀イギリスの経済学者・哲学者J・S・ミル(John Stuart Mill,1806-73)は、国家が持つことのできる権力の限界を決めるための基準として、「他者危害原理」を提唱した。彼がもっとも警戒するのは「多数者の専制」であり、それは国家の専制より恐ろしいものだとされる。なぜならそれは単に政治的機能に限定されず、生活のあらゆる場面で何が正しいか・何が許されているかを規制しようとする危険性を秘めているからだ。
ミルは、「多数者の専制」から個々人の自由を守るために、国家・社会が個人の意思決定に介入しうる限界を見定めようとしたのである(P050)。

他者の自由を侵害しない行為を規制してはならないという形で国家の限界を画そうとする他者危害原理は、だが逆に言えば、他者の自由を侵害する行為が排除されることなしには我々が自由でいられないということをも意味している。我々一人ひとりが、他の個人の自由に対する潜在的危険なのだ(P051)。

コミュニケーションを通じて人々の関係のあいだに自らを実現する「活動」は人間にしかできないものであり、もっとも「人間らしい」行為だとアレントは考える。
言い換えればそこには唯一の正解が存在しない(P065)。

「活動」は人々の関係の中で一人ひとりの個人が相互に変容すること、より高い次元の個人へと脱皮していくことが目的であり、その結果は何か科学的手段によって観測できるようなものではない。だからそれを効率性の尺度で価値付けることもできない(P065)。

ルソー(Jean-jacques Ruoussean,1712-78)
彼が考えたのが、「一般意思」である。各個人の特殊意思の共通部分から構成される一般意思は、集合的・精神的存在としての共同体固有の意思であり、正義の実現に向かって誤ることがない。だから為政者は、全体意思ではなく、一般意思に基づいて政治を行わなくてはならない。
だが、ルソーの思想のポイントは、そこが人々が現実に持っている意思と彼の「真の」意思なるものとがかいり「後で修正」することが認められている点にある(P072)。

守るべきものは消極的自由であり、かつそれに限定されると、リバタリアニズムの論者たちの多くは考えている。積極的自由などというものは「自由」の名に値しないものであり、それを誤って国家の担うべき価値に入れてしまうからむしろ個々人の自由は損なわれるのだと、彼らは主張する。
「リバタニアニズム」(libertarianism)は個々人の自由を最大限に保障しようとする政治思想の一群であり、「自由至上主義」と訳されることもある(P075)。

「偉大なる兄弟は見ている」(BIG BROTHER IS WATCHING YOU)
だが我々は、指導者であり「見ている」はずの「偉大なる兄弟」の正体が混沌としているところに注目しておきたい。「偉大なる兄弟」は見る主体であり、見られる対象ではない。そこには、見る主体から見られる対象へと一方通行に機能する権力が存在している。この見るものと見られるものの非対称性について、記憶しておいてほしい
(P081)。

組織の存在、誰がその組織の一員なのかが隠蔽されている状況で、人々はどこから見られているかわからない不安を抱え、おびえ、組織の権力に従属していったのである。
逆に言えば、一方的に見られることによって、我々は監視者に従属させられることになる。見るものと見られるものの非対称性が、権力的な関係へと転化する
(P085)。

イスラエルの法学者ルース・ゲイビソンは、「私が司祭として初めて受けた告白は殺人に関するものだった」と「私はあの司祭に告白した最初の人間だ」という、二種類のそれ自体は無害な情報が組み合わされることによって、きわめて重大な情報に転化する例を挙げている(Ruth Gaivison,””Privacy and the Limits of Laws”,Yale Law Journal,vol.89,no 3,1980)(P100)。

パノプティコン(P100)。

ここに監視社会を生み出した欲望が隠されている。監視の目的は単にすべてを見ることではない。対象の行動を先取りして予測し、それにあらかじめ対処しておくことが、その本質的な特徴なのだ。国家の場合はこの「対処」が犯罪の予防だったりするだろうし、企業なら商品を用意したり宣伝したりすることであるかもしれない。共通しているのはしかし、そのとき我々一人ひとりの個人が観測・分類・統計処理の可能な確率的存在に還元されていることである(P110)。

「だれも知らない違法行為をこっそり処罰する法律は、罰則対象になるふるまいを規制するのには役に立たない」(レッシグ前掲、四三六ページ。
ところがアーキテクチャは、そのような意識を必要としない。「鍵は、鍵がドアをロックしているのを泥棒が知らなくても、泥棒を制約する」(レッシグ前掲、四三六ページ)。
中略
我々は知らないうちに、ある一定の行為可能性の枠の内側に閉じこめられているのかもしれない。その枠の内側では我々の行為選択に制約を加えるものはなく、我々は完全な消極的自由を享受できるとしよう。だがこれは本当に自由なのだろうか?もし我々がその制約の存在を知っていたとして、それでもなお我々の選択はそのような制約がない場合と同じだと知ることができるだろうか。我々は迷路に閉じこめられたマウスと、どこがどのくらい違うのだろうか?(P118)。

泣きも笑いもせず、ただ現状を肯定するためにそれに適応することを選べば、人はそれなりに生きていくことができるだろう(P121)。

アーキテクチャを通じて、我々の意識しない仕方で行為可能性を制約されているときに、我々にはその権力のあり方を検討したり、それに対して抵抗するということができるだろうか。アーキテクチャの外部を想像することは、はたして可能なのだろうか。我々はアーキテクチャによって自己合理化へと追い込まれながら、そのことに気づかないまま口元に微笑を浮かべているのではないだろうか(P123)。

メーガン法問題
一九九四年、アメリカ・ニュージャージー州の少女、メーガン・カンカ(当時七歳)が強姦、殺害された。犯人は向かいの住人で前科二犯の幼児虐待歴があったが、カンカ一家はその過去を知らなかったという。危険性を秘めた人間が近隣にいることをあらかじめ知っていれば被害を防ぐことができたという意見の高まりを受けて、同年には性犯罪の前歴があるものの情報を積極的に近隣コミュニティに通知する制度を定めたニュージャージー州法が成立、一九九六年には各州に対して性犯罪者情報の公開を義務付けた連邦法が成立した。どちらも「メーガン法」の通称で呼ばれているが、積極的な告知か単なる公開かという重要な点で違いがあることに注意する必要がある(P129)。

我々が実際に行為するそのとき、その行為が本当に社会に受け入れられるかはわからない。それがわからなくとも、我々には行為するしかない。なぜなら、あらかじめ安全なことがわかっている行為などないのだから。行為とは暗闇の中のジャンプである。我々は着地点に大地があることに賭けて、跳ぶしかないのだ。
だがそのように、我々が行為という決断を引き受けなくてはならないという事態は、決して苛酷なものではない。なぜならそれは、それを引き受けることによって我々を「自由な個人」として生み出すようなものだからである(P175)。

個々人の人格やその自由が論じられてきたのは、それらがあると考えたほうがみんなで幸福になれるからだ。
だがいま、アーキテクチャの権力の発達によって人格ぬきの支配が成り立つようになり、しかもその方が効率がよくて皆で気持ちよくなれそうである。
だとすればなぜ、人格とその自由などという古くさいフィクションにこだわらなくてはならないのか?(P201)(但し筆者の意見ではなく安藤馨の意見)

インターネットラジオ「寝ずに聞け!」第二回

インターネットラジオ 『寝ずに聞け!』 第二回です。
Ustream TVにて友人の進地崇弘君とUstreamにて公開中です。
まぁYoutubeみたいなものだと思っていただければ幸いです。
良かったら聞いてください。聞いたらこっそり感想聞かせて下さい。

ちなみに今日進地君のご自宅にて録音してきましたが、寄り道しつつ家に帰って来たら既にパーマリンクできてました。仕事速いねぇ。

ちょっと声が小さかったりして…。

今回のお題は「貧困」でございます。

配信サイト:寝ずに聞け!
http://www.nezunikike.net/

第二回放送 パーマリンク
http://www.nezunikike.net/2008/12/bcast-2nd.html

今後、月に一回のペースでhttp://www.nezunikike.net/の方で配信していく予定です。

ジャンボ宝くじシミュレーター

タイトルは、そのまんま。サイトはこちら
いやぁ、当たらないものですね。

ロングフレアコートが欲しいなぁと思いつつ、自分のブログを検索してみたら、ちょうど一年前にも同じ事言ってた(笑
成長がないなぁ。2007/12/19参照

というわけで買います、今年こそ。

現在はうちの父親のお古(といっても割といいものなので大事に着ていますが)で間に合ってるけど、やはりあこがれるロングコート。
司令からは「似合わない」という趣旨の温かい言葉を頂戴しておりますが、そんなことはない(ハズ

http://long-coat.uenoya.jp/coat/u0015-140/u0015-140.html

きっと似合うよね?ねっ?

『希望格差社会』

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
筑摩書房
山田昌弘

読後の感想
この本を読んで現状に危機感を抱かない若者はいないだろう。緻密なデータと仮説を元にした現時点での現象のせつめいは非常に説得力があり、また怖い。
自分は将来への希望だけでは生きられず、現状への適度な絶望も必要だと思うけどなぁ。

印象的なくだり
もう一つのキーワード、「二極化」とは、戦後縮小に向かっていた様々な格差が、拡大に向かうことをいう。
戦後日本社会は、「中流社会」と言われるように、多くの人が「中流」の意識をもち、大きな格差を感じることなく生活することができた(P013)。

「質的」とは、個人の通常の努力では乗り越えることが不可能な差という意味で使用する(P014)。

人々は一度味わった豊かさや自由を捨てることはできない。
その豊かさを維持するために行う行動、そして、人々の自由な行動が、リスク化や二極化をもたらす原因だからである(P020)。

更に悪いことに、希望の消滅は、すべての人々を一様に見舞うわけではない。
中には、もちろん、将来に希望をもって生活できる人もいる。
それは、生まれつき高い能力や資産をもっていて、経済構造変換後のニューエコノミーのなかで、より大きな成功を得られそうな人々である。
その一方で、平凡な能力とさしたる資産をもたない多くの人々は、自己責任という名のもとの自由競争を強いられ、その結果、いまと同様の生活を維持するのも不安な状況におかれることになるだろう。
つまり、ここに経済格差よりも深刻な、希望の格差が生じるのだ(P021)。

ここでは、リスクを「何かを選択する時に、生起する可能性がある危険」という意味で使いたい。例えば、原子爆弾はデンジャーだが、原子力発電はリスクである(P026)。

近代社会になると、職業選択の自由が認められ、親の職を継ぐ必要はなくなる。
職業の選択の幅が広がり、誰でも自分で選んだ職に就く可能性が生じる。
しかし、それは誰でも自分が選んだ職に就けるということを保証するものではない。
むしろ、職の方から選ばれない確率も高いのだ(P031)。

親の決めた相手と結婚しなくともよい自由が与えられ、不本意な相手と結婚生活を続ける必然性はなくなる。
しかし、好きな人と結婚できる自由があったとしても、好きな人と結婚できる保証はない。
自分がよくても、相手にNOと言われるケースがでてくる。
こちらが離婚したくなくても、相手から離婚を言い出されるケースも出てくる。つまり、結婚の自由化は結婚できないリスクを作りだし、離婚の自由化は相手から離婚されるリスクを作り出すのである(P032)。

弱者がまとまることが難しくなる
(中略)つまり、「弱者に転落するかもしれない」という意識だけでは、連帯することは不可能である。
なぜなら、多くの人は「弱者に転落しなくて済む」と思っていて、実際に転落しない人がいるからである(P045)。

保険会社が倒産して保険金がもらえないのは、危ない会社を選んだ個人の責任であるというように、保険というリスクヘッジに伴うリスクの危険までもとらされるのである(P046)。

所得の不平等度を著すジニ係数(P060)。

「努力が報われると感じること」が、希望という感情をもたらす(P089)。

選ぶ自由があるからといって、望む選択肢が実現するとは限らない。若者に関しては、不安定な職を「選ばざるを得ない」状況に追い込まれている。
若者の意識変化は、そのような状況に適応した結果生じたのであって、その逆ではないことを強調しておきたい。
若者の心理的安定、そして、自己正当化のためには、「好きでやっている」という言い訳が必要となるのである。これも、日本だけでなく、他の先進国でも、なかなか得られない「自分らしさ」を求める若者の意識として指摘されている現象なのである
(P101)。

いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三〇歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員として雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをいしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四〇過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が不良債権と化すのだ。
そして、いずれ、生活を支えていた親が弱ったり亡くなったりする。歳をとれば、アルバイトの口もかからなくなる。そして、結婚や子どもを作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が一〇〇万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。彼らは、自分自身の生活を自分で支えられるのだろうか。生活が破綻する人が増え、その結果、社会福祉費が増大する。何より、年金掛け金や税金を納めず、子どもも育てない中高年者が増えれば、それだけ、まともに働いている人やきちんと子育てをしている人にしわ寄せが来るはずである。社会全体の不良債権と化することは目に見えている。彼らに年金の掛け金を納めろと説得することは、不可能である。明日の生活に不安な人は、六五歳になってからの生活など心配できるはずはない(P125ー126)。

独身保険や離婚保険などできるはずもない。離婚を予測して準備をすること自体が、離婚を誘発する危険性があるのだ(相手から不審の目で見られる)。せいぜい、一人で生活できるよう仕事能力、家事能力を付ける位しか対策はない(P143)。

ちなみに、スウェーデンでは、自殺では保険金がおりないので、不況と自殺率には相関関係がない(P155)。

学校教育システムは、ただ、子どもに知識を与えるだけの機関ではない。社会・経済システム全体の中にあって、教育される子(とその親)、そして、社会にとって、重要な役割を担っている。
教育は、子ども(とその親)にとっては、何より「階層上昇(もしくは維持)の手段」であり、社会にとっては「職業配分の道具」なのである。この二つの機能が危機に瀕していることが、現在の教育問題の根幹にある。
そして、この視点から教育を考えることは、主流の教育学者、教育関係者(教師や旧文部省など)、教育評論家、一部マスコミにとっては、たいへん嫌われる。従来の教育界主流の考え方では、教育の目的は、人格の完成とか、学ぶこと自体が楽しいとか、文化の伝達などで「あるべき」であって、投資とか金銭的リターンなど「経済的利益」、ましてや「社会的効率」の視点から教育を考えることは良くないことであるという意見が強かった(P159)。

教育は、「手段」なのであって、それ自体が目的ではないことを肝に銘じるべきである。何事も、それをすること自体が目的になってしまうと、一種の「宗教」となってしまうのだ。そして、教育の自己目的化をあおるマスコミの論調が、教育改革を阻んでいる一つの要因なのだ(P160)。

つまり、この学校に入りさえすれば、ある職業に就けるという確実性がなくなったが、学校に入らなければ、確実性どころか、可能性さえないという状況である。青少年は、教育課程において、パイプラインに入り、リスクを取ることを強要されるのである。これが、教育システム版のリスクの普遍化である(P173)。

学力低下は、決して教師の教え方が著しく下手になったせいではなく(高度成長期も上手とは言えなかった)、親が勉強させないためでもなく、受験の詰め込みのせいでもない。学校で勉強しても就職に結びつかない、つまり「勉強しても仕方がない」という事実が厳然と姿を現しているからである(P186)。

社会心理学者ランドフル・ネッセの希望論を手がかりにして、現代日本の若者意識を分析してみたい。彼は、希望(hope)という感情は、努力が報われるという見通しがある時に生じ、絶望は、努力してもしなくても同じとしか思えない時に生じると述べている。努力を、「苦労」や「つらさに耐えること」と置き換えてもあてはまるし、報われることは、経済的利益を得るだけではなく、自分が行った努力が社会から評価される(将来でも、現在でもよい)と信じることである。
人間は、何の苦労もない楽な状態で満足する生き物ではない。楽であっても物足りなく不幸を感じることもあれば、苦労があっても、それが生きる活力になって幸せを感じるときもある。ジャン=ポール・サルトルは、パリ市民が最も生き生きしていたのは、第二次世界大戦のナチスドイツの占領下だったという。将来の解放を信じて、レジスタンスという苦労を重ねることが、人々の喜びであったのだ(P194)。

中国が、「社会主義」という看板を捨てられないのは、革命によって前近代的宗教を破壊した後に、社会主義を放棄すれば、貧しい人々に心理的救いがなくなってしまうことに指導者たちが気づいているからなのだ。ソ連が崩壊した後、ロシアをはじめとした旧ソ連構成国は、宗教や民族を基盤とした数々のテロに悩まされているではないか(P198)。

もうこの世で報われないという絶望間に陥ると、他人の幸福がうらやましくなる。精神科医の和田秀樹氏の言う「エンビー型」の嫉妬心が生まれる。他人が幸福であるとき、自分も努力して幸福になろうと思うのが、「ジェラシー型」の嫉妬であり、和田氏は高度成長期にはそれが典型的だったと主張する。一方、他人が自分と同じ不幸になることを願う気持ちを「エンビー型」と呼んで、このタイプの嫉妬が近年増えていると述べている(和田「幸せになる嫉妬 不幸になる嫉妬」)。目的合理的ではい犯罪は、この「エンビー型」嫉妬を原動力ひきおこされる。つまり、「不幸の道連れ」なのである。人生を捨てている人に怖いものはない(P209)。

現行制度のもとでは、不動産を相続していれば、生活保護など社会的サポートは受けられない。一方、中高年になったフリーターは、アルバイトでさえも雇ってもらえなくなる。リスクを先送りしているうちに、深刻なリスクに陥る元若者が増える。
彼らの絶望感は、いま以上に深刻になるだろう。その先には、アディクションにふけるものや自暴自棄になる者も増え、中には「不幸の道連れ型」の犯罪に走る者もでてくるだろう(P221)。

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