『サクッと分かるビジネス教養東南アジア』

『サクッと分かるビジネス教養東南アジア』

『サクッと分かるビジネス教養 東南アジア』は、東南アジアに関わるビジネスパーソンに向けて、地域全体の文化、経済、歴史などを分かりやすく解説する一冊です。
この地域に出張する機会の多い現代のビジネスパーソンにとって、東南アジアの国々は多様な文化的背景や社会制度を持つ魅力的な市場であり、この本はそのような背景を理解するための手助けとなるでしょう。
著者は、地理的、宗教的、経済的な視点を通して、東南アジアを総合的に捉え、読者が実務で役立てられる知識を提供しています。

出張の際の服装の重要性
まず印象的だったのは、東南アジアでのビジネスマナーに関する具体的なアドバイスです。
特に「出張の際の服装」についての記述(P.027)は、日本人ビジネスパーソンにとって参考になる内容です。熱帯地域である東南アジアでは、エアコンが効いた室内で働くことがステータスとされ、現地のビジネスマンはジャケットやネクタイを着用することが一般的です。
これに対し、日本からの出張者が半袖のシャツ一枚で訪れると、場違いな印象を与えかねないという指摘は、ビジネスシーンにおいて軽視できないポイントです。
私は東南アジアには旅行者としてしか行ったことがないのですが、確かに官庁街(特にベトナムのハノイでは顕著だった)では、靴を履いている人=エリートという感じでした。

このような細やかな服装の配慮は、単に見た目の問題だけでなく、ビジネスマナーの一環としても非常に重要です。
現地の文化や習慣を尊重し、その場に適した服装を選ぶことは、相手に対するリスペクトを示すことに繋がります。
特に、初めてビジネスで東南アジアを訪れる際には、事前の確認を怠らないことが重要です。
この本は、そうしたビジネス文化の違いを具体的な例を挙げて説明しており、読者が実際のビジネスシーンで役立てやすい知識を提供しています。

東南アジアにおける仏教の影響
次に、東南アジアにおける宗教の影響も詳しく説明されています。
特に仏教に関する章(P.032)は、東南アジアの文化的背景を理解する上で重要です。
インドで生まれた仏教が、ブッダの没後に大乗仏教と上座部仏教に分かれ、それぞれが異なる地域に広がっていった過程が簡潔にまとめられています。
大乗仏教が中国を経由して日本やベトナムに伝わった一方で、上座部仏教はインドから東南アジアの国々に広がりました。

特に上座部仏教の影響を強く受けた国々では、出家や修行が非常に一般的な慣習とされています。
黄衣をまとった修行僧が托鉢をする光景は、東南アジアの街中で頻繁に見られる風景であり、これは地域の宗教的、精神的な価値観を象徴するものです。
こうした宗教的背景は、ビジネスにおいても重要な意味を持ちます。
例えば、僧侶や宗教施設への接し方など、現地の宗教的感情を理解し尊重することが、ビジネス関係を良好に保つために必要です。私も旅行中に見た電車やバスの中で「僧侶ファースト」と記載され、敬意を払っている様子を見受けました。少なくとも他国の人が敬意を払っているものに対しては、軽んじることは避けるべきですね。

さらに、仏教が個人の修行や救済を重視する上座部仏教の影響は、ビジネスマインドにも反映されているかもしれません。
個々の努力や自己規律が重んじられる社会では、自己成長や責任を重視する文化が育まれており、これが現地のビジネス習慣や仕事の進め方にも影響を与えている可能性があります。
東南アジアでのビジネスを成功させるためには、こうした宗教的・文化的背景を深く理解し、適切に対応することが求められるのです。

インドで生まれた仏教は、ブッダの没後、大乗仏教と上座部仏教に分離しました。多くの人が救われることを理想とする大乗仏教に対し、上座部仏教は個人が修行をして自力で救済されることを理想とします。大乗仏教は、中国に伝わり、朝鮮、日本、ベトナムに伝来。上座部仏教は、インドから南東方向に伝播しました。上座部仏教の国では、多くの人が「一度は出家・修行すべきだ」と考えており、黄衣をまとった修行僧が托鉢をする光景が、街中で見られます(P.032)。

教育の格差と識字率
東南アジアの教育に関する章も、非常に興味深い内容です(P.046)。
多くの国で識字率が90%を超えている一方で、依然として教育の格差が存在しており、教員や学校の不足が経済成長の足かせとなる可能性が指摘されています。
具体的な識字率のデータを挙げることで、各国の教育レベルの差が浮き彫りにされています。

例えば、ベトナムやタイの識字率が90%を超えている一方で、ラオスやカンボジア、ミャンマーでは80%前後、東ティモールでは68.1%と、国によって大きな差があります。
これらの違いは、経済発展や産業の発展にも直結しており、ビジネスパーソンが東南アジアで事業を展開する際に無視できない要素です。
識字率が低い国々では、労働力の質や教育レベルに注意を払う必要があり、それが事業戦略にも影響を与えるでしょう。

また、この教育格差は、東南アジア全体が経済的に発展する中で、国際的な競争力に影響を与える要因ともなります。特に、技術革新や情報化が進む現代において、教育の普及とその質の向上は、各国がグローバル市場で競争力を保つために不可欠な要素です。この本を通じて、東南アジア各国の教育状況を把握することは、ビジネスの戦略を立てる際に非常に有用です。

参照として、ユニセフの統計データです。
「表11:教育指標」に識字率があります。2023年はラオスは「データなし」になっていますが、、、。

ASEANとその課題
ASEAN(東南アジア諸国連合)の役割とその特異な運営方式「ASEAN Way」に関する章も、非常に読み応えがあります(P.075)。
ASEANは東南アジアの政府間組織で、10カ国が加盟しており、年に2回の首脳会談や閣僚会議を通じて、経済や軍事、教育など幅広いテーマについて協議されています。
ASEANの特徴は、全会一致や内政不干渉を原則とする緩やかな協力体制です。
この「ASEAN Way」は、加盟国が対等であり、他国の内政に干渉しないという原則に基づいています。
このため、文化的・政治的に多様な国々が協調し合うための柔軟な枠組みとして機能しています。し
かし、全会一致が必要なため、たった一国の反対で意思決定が遅れることもあり、時には機能不全に陥るリスクも指摘されています。
たとえば、2006年に軍事政権下のミャンマーが議長国となった際には、人権侵害を問題視した欧米諸国がASEANとの会合をボイコットする事態が発生しました。
この例は、ASEAN Wayの限界を浮き彫りにしています。
ASEAN Wayは、一見して柔軟で協調的な制度ですが、国際的な圧力や加盟国間の政治的対立が生じた際には、その緩やかさが足かせとなることもあります。
しかし、文化や歴史、政治体制が異なる国々が協調していくためには、こうした緩やかなルールが不可欠であるという現実もあり、ASEANがどのようにしてそのバランスを維持していくかが注目される点です。

メコン川を巡る地政学的問題
最後に、メコン川を巡る地政学的な問題(P.087)も、東南アジアの国際関係を理解する上で重要なトピックです。
メコン川は、東南アジア大陸部の5カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー)にとって、農業や漁業のための重要な水源です。
しかし、近年、中国がメコン川の上流に次々とダムを建設しており、その影響で下流域の水位が低下し、淡水漁業や農業に深刻な被害をもたらしています。

この問題は、東南アジアの国々が共同で水資源管理を行うために設置されたメコン川委員会でも解決が難しい問題となっています。
特にラオスは多くの支流を持ち、水力発電に有利な立場にありますが、中国との関係が複雑化しているため、これが地域全体の経済的安定にも影響を与える可能性があります。こ
うした地政学的な問題は、単に環境問題にとどまらず、地域全体の経済や安全保障にも関わる重要なテーマです。

国際河川であるメコン川でのダム開発には、メコン川委員会での関係国との利害調整が必要です(事実上不可)。支流を多く持つラオスが水力発電で有利なのはこのためです。同委員会に入っておらず、上流にダムを次々と建設する中国(P87)は、ラオスをはじめメコン川中下流域国との関係を複雑化しています。
ラオスは5ヵ国に囲まれた国です。カンボジアと同じく親中国であり、ラオスと中国の間には高速鉄道が建設されています。同じ社会主義国であるベトナムを、発展を成功させた兄貴分として慕っている一方、民族的に近く、相互に言語が通じるタイとの関係は、ベトナムほどではありません(P.133)。

ラオス人民軍博物館を訪問したときに、ラオス独立の歴史の展示を見てきました。そこにはベトナムの国旗があちこち飾られており、ラオスとの密な関係性が伺えました。
特に、独立時に支援してくれたベトナムとは、日本的な用語を使えば「苦楽を共にした」感じになるのかもしれないですね。
とはいえ、ホーチミンルートの関係で大量の地雷を残されたラオスとしては愛憎混じった複雑な感情なのかもしれません。

まとめ
『サクッと分かるビジネス教養 東南アジア』は、東南アジアの多様性を理解するための非常に有用なガイドブックです。ビジネスパーソンに必要な知識を幅広く提供し、文化的背景や歴史、経済状況を通じて、東南アジア各国とのビジネス関係を成功させるための視点を与えてくれます。特に、出張時の服装や宗教的背景、教育や政治の問題、環境資源に関する課題など、具体的な事例を挙げながら、読者が現地で直面する可能性のある問題に備えることができるようになっています。

この本を手に取ることで、東南アジアにおけるビジネスチャンスを最大限に活かすための準備が整うでしょう。地域の複雑な問題を理解し、適切な対応をするための第一歩として、この本は非常に価値ある一冊です。

どっとはらい

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『不思議の国のラオス』

『不思議の国のラオス』森山明著

読後の感想
森山明さんの『不思議の国のラオス』は、ラオスの歴史、文化、そして現代社会を多角的に捉え、独自の視点から紹介している一冊です。この本を通して、著者はラオスという国の魅力を丁寧に伝え、その中に深い洞察を垣間見せています。

特に、フランスの凱旋門を模した「パトゥーサイ」の建造物についての考察が印象的です。なぜ植民地支配からの解放を目指して戦ったラオス人が、かつての宗主国の象徴的な建物を模倣したのかという問いは、ラオスの歴史の複雑さを象徴しています。ラオス王国がパトゥーサイを建設した背景には、国際社会や植民地主義との関係を超えたラオス独自の歴史的文脈があることが示されています。

この通りの東北端には、パリのエトワール凱旋門を模した戦没者慰霊塔のパトゥーサイが聳えています。パトゥーサイは、エトワール凱旋門の様式を模しているばかりでなく、ラオス語のパトゥーサイは、文字通り「凱旋門」を意味するのです。現在の社会主義国家を建国したラオス人の先人たちは、半世紀を超えるフランスの植民地支配に抗して激しく戦いました。そのラオス人が、なぜかつての宗主国フランスの建造物を真似たパトゥーサイを造ったのでしょうか?答えは、パトゥーサイを造ったのは現政権ではなく、一九七五年に現政権に倒されたラオス王国の政府だった、ということです(P.034)。

また、ビエンチャンの通りに名付けられた王様の名前やその象徴性についても興味深い考察が展開されています。単に政治的な名付けではなく、ラオス国民の感情や歴史に根ざした柔軟な政治的知恵が働いているという点は、現代ラオスの国民性や政府の姿勢を理解する鍵となります。
さらに、著者はラオスの国旗に込められた象徴についても触れ、メコン川に昇る月が50の民族の連帯を示していると説明します。これは、ラオスが多様な民族で構成されている国家であることを強く意識させる描写であり、ラオスのアイデンティティの多様性を浮き彫りにしています。

総じて、ラオスでの体験を振り返り、「何がラオスにあるのか」という問いに対して、著者は「光景の記憶」を挙げています。この「匂い」「音」「肌触り」といった感覚を通して得られる旅の本質が、ラオスの魅力の一つであり、効率や成長を追求する現代社会が忘れ去った何かが、ラオスにはまだ存在しているというメッセージが強く心に響きます。
(村上春樹の「ラオスにいったい何があるというんですか」を強く意識した記述で、ニヤニヤしながら読みました)

逆に日本がラオスから学ぶものとしてジェンダーギャップの点がありました。

世界経済フォーラムが実施する「ジェンダーギャップ指数二〇一八年」で、経済大国の日本は〇・六六二で、149か国中の110位という不名誉な位置でした。一方、国連から後発開発途上国に分類されているラオスは、同〇・七四八で、26位でした。日本は、ラオスに対して、過去に大きな経済支援をしてきましたし、今でもしています。そのことは、大変に結構なことなのですが、こういう国家の関係にあると、自戒を籠めて書くのですが、個人としての日本人までがラオスに対して上から目線になりがちです。現在、日本政府は、「女性が輝く社会」の実現を最重要課題の一つに掲げています。たとえば女性の社会的な活躍のための環境造りについて、ラオス人から知恵を借りる、なんていう謙虚な気持ちが日本の政府や日本人にあっても、罰は当たらないのではないでしょうか(P.186)。

総じて、この本は、ラオスという国を単なる観光地としてではなく、歴史や文化、社会の多様な側面を含む豊かな国家として描いており、森山氏の丁寧な取材と深い洞察が詰まった一冊です。ラオスを理解し、そこから何かを学ぼうとする読者にとって、多くの示唆を与えてくれることでしょう。

という真面目な文はさておき、この方に一番共感をいただいたのは、タイトルの言葉遊びです。
あちこちに散りばめられた本歌取り的な引用、パロディが読んでいてこころくすぐられます。
但し、在ラオス当時はJTBの人らしく、旅行ガイドがメインになっているのはご愛嬌です。

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印象的なくだり
ビエンチャンの大通りを見てきて、あらためて、ラオス政府が王国や王様の名を大通りに付した理由を推測してみましょう。見てきたように、通りの名として付されたのは、ラオス初の統一王朝の名称と、その創始者の王様、また、統一王朝の権力基盤を強化した王様、そして、統一王朝の隆盛期を築いた王様の名でした。さらに、銅像となった王様としては、ラーンサーン王国が分裂してできたビエンチャン王国の、シャム国に反攻した英雄王と、第二次世界大戦の末期に、植民地帝国フランスからの独立を宣言したルアンパバーン王国の王様でした。人民路、解放路、建国路、中山路というような、上からかぶせるような政治色の強い命名よりも、国民感情に訴えるような命名を、ラオス人民民主共和国政府は、選んだのでしょうか。そうであるならば、それはそれで、ラオス政府の柔かな政治的知恵と言えるかもしれません。まあ、ラオス人のある種のナショナリズムの発露だとも言えるのでしょうか。すべては、ラオスにとってはよそ者の私の手前勝手な推測です(P.037)。

ラオス人民民主共和国にとって、月には特別な意味があるのです。ラオスの国旗をご覧ください。一九七五年に人民民主共和国として建国したラオスの国旗です。上下の赤い帯には、幼争で自由を勝ち取るために流された人々の血の色を、また、青い帯には、メコン川と川に育まれた豊穣を象徴させ、そして、中央の白丸には、メコン川に昇る月によって五〇の民族の連帯を象徴させました(P.040)。

ビエンチャンにいた頃に読んだ英字紙の『ビエンチャン・タイムズ』に、二〇一七年六月時点でのビエンチャンを走るトゥクトゥクの数が三四〇台だと載っていました。これが多いのか少ないのかは何とも言えませんが、少なくともビエンチャンの中心部を歩いている限り、主要な寺院を含む観光スポットや大通りの角に客待ち停車するトゥクトゥク、そして、空で走っているトゥクトゥクがいつでも掴まえられるので、何分も待つことはほとんどありません(P.065)。

ビエンチャンの名を聞けば、ラオスの首都を思い出します。しかし、行政上は、首都ビエンチャンと、その北側に広がるビエンチャン県の二つの区域に分かれています。ビエンチャン県は、首都ビエンチャンとは違って、山あり湖あり川ありの、田園が広がっています。首都の住民たちは、週末になると、日帰りで、あるいは一泊で、家族や友だちと連れ立ってビエンチャン県に向かいます。そんなビエンチャン県の見どころをいくつか紹介します(P.092)。

ラオスから帰った村上は、「ラオスにいったい何があるというんですか?」という問いに対する明確な答えを持ち得ていません。しかし、いくつかの光景の記憶だけは持ち帰りました。そして、その光景には、「匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。そのときの心の震えが思い出せる」のでした。村上は、これこそがまさに旅ではないか、というのです。
どうもラオスを訪れることの魅力というものは、村上のようなやり方でないと伝えられないのか、という気がしてきます。高度に経済成長を遂げた日本という国に住む私たち、スピード、効率、競争、成長で気を休めるいとまのない私たちと私たちの社会が、どこかに置き去りにしてしまった何ごとかが、ラオスにはまだ残っているのだ、と言いたくなります(P.104)。

ラオスは多くの民族で構成される国家です。国家が正式に認めているだけでも、五〇の民族が存在します。そして、その民族の分類の仕方に、居住空間によるものがあります。『ラオスを知るための60章」(明石書店)によれば、「ラオ・ルム(低地ラオ)、ラオ・トゥン(山腹ラオ)、ラオ・スーン(高地ラオ)である。(中略)この区分が人々の居住空間や生活様式、生業の多様性をうまく説明しているからである」なのだそうです。
さて、ラーオ・ルムは、ラオスの人口の過半数を占めるラーオ族に代表され、ビエンチャン、ルアンパバーン、サワンナケートなどのメコン川沿いの河岸平野に開かれた町とその周辺に住んでいます。一四世紀半ばにラオスを統一して、ルアンパバーンにラーンサーン王朝を開いたのも、ラーオ族でした。また、ラーオ・トゥンは、ラオスの先住民といわれるモン・クメール系語族に代表され、山の頂と河岸平野との中間の地域に住んで、焼き畑を行ってきた森の民です。北部の各県で多数を占めるクム族は、このグループに属します。そして、ラーオ・スーンは、モン族に代表されます。歴史的にラオスの地にもっとも遅れてやって来た人々で、他の民族がまだ住んでいなかった山の奥深くや頂近くに住んで、焼き畑で生活してきた山の民でした(P.180)。

まずは、近代史におけるモン族の役割ですが、第二次世界大戦が終わって、日本軍がインドシナ半島から撤退した後、ラオスを再度植民地化したフランスと、ベトナムを後ろ盾にして独立を求める勢力の間で戦闘が始まりました。その時フランスは山岳戦に秀でたモン族の若者を訓練して、対独立勢力の戦闘に投入しました。そしてフランスの撤退後は、インドシナ半島の共産化を阻止せんとしたアメリカがモン族の戦士たちを引き継ぎ、ラオスの左派軍や北ベトナム軍と戦わせたのでした。モン族の勇敢な戦士たちは、ラオスの主に北部の山岳地帯戦で勇戦しました。二十数年に渡る戦いで、「推定三万人ものモン族が死んだが、それはラオスのモン族人口の一〇%以上だった」そうです(P.182)。

マス・ツーリズムの喚起策として、売るべきものをルアンパバーンの魅力に絞ったのはよいのですが、マス・ツーリズムの販売促進は、総じていえば、お金がかかります。マスのマーケットに向けて、観光魅力を精一杯の方法で広報・宣伝していかねばなりません。ところが、国連から後発開発途上国、すなわち経済的な「貧困国」に認定されているラオスは、観光促進に投ずることができる予算が、きわめて限られているのでした。二○二○年までに後発開発途上国から脱するという最重要目標を掲げるラオス政府にとって、観光産業は極めて大切な産業です。なぜなら、外国人観光客がラオス国内で消費する金額は、ラオスの輸出産業の中で、銅を主とする鉱物資源の輸出、水力発電によるタイなどへの売電に次いで、三番目に大きいのです(P.191)。

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合格体験記:第2種衛生管理者試験

第2種衛生管理者試験

【総論】
第2種衛生管理者試験は、日本の労働安全衛生法に基づき、企業内で労働者の健康と安全を守るために必要な資格です。
試験会場を調べたところ、地方では試験が年に1回しか開催されないことが多かったのです。
一方、東京や大阪などの大都市圏では毎週のように試験が開催されていました。
地方に住んでいる私は受験のチャンスが少ないかなと思っていましたが、ちょうど夏休みのラオス旅行の際に東京で空港移動(羽田から成田)があることを思い出し、東京で試験を受けることに決めました。
しかし、その決断が、私にとっては非常に厳しい試験勉強のスタートとなりました。

勉強時間の確保に苦労
仕事が非常に忙しい時期に差し掛かり、勉強時間を捻出することが最も苦しい課題となりました。
1日30分の勉強時間を確保することさえ困難で、土日も仕事が入ってしまうため、まとまった時間を勉強に充てることができませんでした。
初めのテキスト読み込みは、1日2章進めるのが精一杯で、テキスト一冊を読むのに17日もかかってしまいました。
このペースでは合格が難しいと感じ、次第に焦りが募りました。

インプットとアウトプットのバランス調整
テキストの2周目に入ったときは、ようやく内容が頭に入りやすくなり、テキスト一冊を7日で読み切ることができましたが、依然としてアウトプット、つまり問題演習に十分な時間を割けないことが不安材料となっていました。
過去問演習に入る頃には、試験日までの時間が迫っており、焦りとプレッシャーが増していきました。

模擬試験での挫折
試験の12日前に過去問を試験形式で解いてみたところ、関係法令で3点/10点、労働衛生で6点/10点、労働生理で5点/10点で合計14点と、合格ライン(18点)には程遠い結果でした。
この時点で、合格は「ちょっと無理」だと感じました。
しかし、諦めるわけにはいかず、毎日すきま時間を必死に捻出し、過去問の解説を読み込み、間違えた箇所を中心に復習を繰り返しました。
結局試験勉強はやるしかないんで、やりました。「超」やりました。

ようやく合格点が見えてきた
試験1週間前の8月15日には再度過去問を解き直し、なんとか合格ラインに達する点数を取ることができました。
しかし、確実に合格できる、まで道のりは険しいものでした。
試験3日前の8月20日と試験当日にも過去問に取り組み、ようやく自信が持てる回答だけで合格点が取れるようになってきました。
結局実務の試験は、合格すればいいというものではなく、その後の実務で使えるレベルの知識がないといけないと感じていました。

合格を目指す人へのアドバイス
試験に合格するためには、計画的な勉強と復習が重要です。
特に、法令部分は自身の会社に当てはめて考えると理解が深まります。
また、過去問の反復演習と復習に時間をかけることで、自信を持って試験に臨むことができます。
最後に、試験は「基準点に達した人全員が合格する」絶対試験ですので、自分のペースで着実に学習を進めてください。

また試験勉強での最大の敵は、時間との戦いです。
特に仕事と両立させる場合、計画通りに進めることが非常に難しいです。
しかし、どれだけ厳しい状況でも、最後まで諦めずに粘り強く取り組むことが重要です。
私は何度も挫折しそうになりましたが、過去問を繰り返し解き、理解を深めることでなんとか合格することができました。
合格を目指す方も、時間の制約があっても諦めずに挑戦し続けてください。

【各論】
時系列集(思いつきから受験まで)

思いついた日は2024年7月15日。
試験会場を調べると、東京はほぼ毎週のように開催されているが、地方は年に1回とか開催が非常に少なくて愕然。
じゃあ試験を受けるためだけに東京に行く、ほどのモチベーションがあるか、と思うとそれもちょっと微妙。
しかし、夏休みとしてラオスに行く際に、小松から羽田、そして成田を経由するルートにのれば、途中で東京で試験を受けられることに気づく。
というわけで、すぐに出願し申し込んでから勉強を開始した。

使用したテキスト
書店にはテキストがいくつかあったので、読みやすさ、アウトプットとしての問題がついているかどうか、の観点で、一冊選んだ。
TAC出版、「スッキリわかる衛生管理者第2種」堀内れい子

具体的な勉強方法
やはり王道としては「テキストを読む」>「問題を解く」のインプットとアウトプットの流れで進めました。
試験問題は選択式、合格基準は「科目別最低点(足切り)」と「合計得点」で、相対試験ではなく絶対試験です。
つまり、「上位何人が合格する」試験ではなく「基準点に達した人全員が合格する」試験だということです。
勉強計画を立てた段階では、インプットとしてテキスト読み込みは2周し、1周目は大枠を掴むため理解中心でさらっと読み、2周目は暗記を中心にきちんと時間をかけました。
また公表されている過去問が少ないため、本番と同じ環境で過去問題をといて、全ての選択肢について、正誤判定をしていく、という方式をとりました。
つまり過去問は問題を解く時間よりも、解説を読む時間、暗記をする時間を多く取るようにしました。
実際に問題を解いてみると、あやふやな知識が原因で間違えることも多かったため、その際にはテキストに戻ってきちんと正しい知識を覚えるようにしました。

インプット期
受験申し込みをしてから本格的な勉強を開始しました。
このころ仕事がめちゃくちゃ忙しい時期で、1日30分を捻出するのもしんどい時期だったし、土日も当然のように仕事をしていました。
そんな状態のまま勉強してても、正直言ってなんとなく読んでいた感じだった。
1日2章くらいしか読み進むことができず、テキストを一回りするのに17日くらいかかってしまった。
それに比べて、2周目はわりとサクサク読めたので、テキスト一回り7日で読み切りました。
この期間がインプット期です。

アウトプット期
インプット期の後半から問題を解くいわゆるアウトプットも始めました。
過去問はテキストに別冊でついていたもの1年分と、「一般社団法人新潟県労働衛生医学協会」が公表しているものを使いました。
https://www.niwell.or.jp/education/labor/exam.html

なぜか公式が出している問題は、問題の横にいきなり正解が記載されているため勉強には不向きでした、なんでやねん。
https://www.exam.or.jp/lc_r061/LC20241115.pdf

実力の推移
本番が8月23日に対して、12日前の8月11日に過去問を試験と同条件で解きました。
関係法令3点/10点、労働衛生6点/10点、労働生理5点/10点で、合計14点/30点
でした。各科目最低4点かつ、合計18点は必要なので、この時点では不合格であったと言うことです。
その時点実力がはっきり分かり、これはまずいと思いました。

その後、4日かけて復習し、8月15日に再度過去問を解き直しました。
関係法令7点/10点、労働衛生6点/10点、労働生理8点/10点で、合計21点/30点
ようやく合格点に達しました、しかし適当に書いたものも正解してしまっていたので、参考程度にしておきました。

8月20日に3回目の過去問を解きました。
関係法令6点/10点、労働衛生8点/10点、労働生理9点/10点で、合計23点/30点
最後に試験日当日の8月23日午前中にもう一度解いた結果
関係法令8点/10点、労働衛生9点/10点、労働生理7点/10点で、合計24点/30点
その中で勘ではなく、確実に解けた問題は
関係法令4点/10点、労働衛生7点/10点、労働生理6点/10点で、合計17/30点でした。

つまり、合格点18点に対して、確実に17点取れて、残りの13問は50%の確率で正解まで辿り着けていました。
このように取れた点数を逆算することによって、妙な安心感を持つことができたので、自信を持って受験し、そしてそのまま海外に旅立ちました、とさ。

合格までにかかった時間
Study Plusで時間を記録していました。
合格までにかかった時間の合計は、24時間15分です。
7月22日の週:2時間15分
7月29日の週:6時間15分
8月05日の週:6時間23分
8月12日の週:5時間45分
8月19日の週:3時間38分

どっとはらい。

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『日本を捨てた男たち』

『日本を捨てた男たち』水谷竹秀

読後の感想
『日本を捨てた男たち』は、フィリピンを舞台に経済的に困窮した日本人たちの実態を描いたノンフィクションです。
著者の水谷竹秀は、彼らの苦しい現状に肉薄し、その人生の葛藤や選択に迫っています。
本書を通じて、私たちは「困窮邦人」という存在について考えさせられます。

「困窮邦人」が直面する現実は衝撃的です。
彼らは、フィリピンの街で路上生活を強いられ、日本とは全く異なる環境で日々を過ごしています。
P.021に書かれているように、こうした日本人たちは、所持金を使い果たし、ホームレス状態に陥っています。
フィリピンにおいては、彼らの存在はよく知られており、特にこの国で困窮邦人が増えているという事実は、現代社会が抱える問題の一端を示していると感じました。

また、ノンフィクションである以上、取材の難しさについて「困窮邦人は自分の都合のいいことしか言わない」という取材相手の言葉は、非常に考えさせられます。
困難な状況にある人々が、自己防衛のために自らの発言に整合性を持たせようとする姿勢には、人間の弱さや葛藤が浮かび上がります。
この状況を目の当たりにした著者が、取材の中で真偽を確かめざるを得なかったことも理解できます。
フィリピンという異国の地で生き抜くために、彼らがどのようにして自分を守っているのか、その姿勢には複雑な感情が交錯しているように思います。

80歳手前の老人との対話は、取材者としての著者が自らの限界に直面する場面です。
この老人が突然怒り出し、感情をぶつける瞬間に、著者は自らの思い上がりに気づきます。
困窮する人々に対して「助けてあげよう」という気持ちは、善意であっても相手にとっては逆効果であることがあるのです。
この老人とのやり取りを通じて、著者が抱く「人は対等ではいられない」という現実は、取材者と取材対象者との間に存在する見えない壁を象徴しているように感じました。

今までの常識をひっくり返したくだりは、フィリピン警察の捜査費用についてです。
海外の警察(特に東南アジア系)って腐敗しているイメージがありましたが、その理由はもしかしたら待遇にあるのかもしれないと思い至りました。
P.143ではフィリピンの捜査機関の現状について触れられています。
偽札の取り締まりがあまりにもあっけなく終了してしまったことは、フィリピンの警察の資金不足や労働条件の厳しさが背景にあることが示されています。
このような途上国特有の事情は、困窮邦人たちの生活をさらに厳しいものにしていると感じました。
彼らは日本では経験しなかったような法律やシステムの違いにも直面し、孤立感を深めているのかもしれません。
例えば、フィリピンでは日本人の名義では不動産が購入できないので、フィリピン人妻名義で購入し、妻から捨てられるなんてことはおそらく想像だにしていなかったでしょう。

あと、1953年に制定された国援法について言及されています。
戦後に中南米に移住した日本人の帰国支援を目的に作られたこの法律は、現在では困窮した日本人を救済するための手段となっています。
フィリピンで困窮する邦人たちがこの制度によって帰国できるということは、彼らにとって最後の頼みの綱となっているでしょう。
しかし、飛行機代や宿泊費が貸し付けられるものの、それが「貸付」である以上、彼らが返済の目途を立てられるのかは疑問です。
また、支援がある一方で、彼らの状況が根本的に解決されるわけではないという現実が残ります。

『日本を捨てた男たち』は、フィリピンという異国で生きる困窮邦人の現実を鋭く描いた一冊です。
読者は、彼らの姿を通じて、人生の選択やその先に待つ現実について深く考えさせられます。
彼らの境遇に共感し、理解しようとすることは容易ではありませんが、本書はその困難さと向き合う機会を与えてくれる貴重な作品だと感じました。

印象的なくだり

海外で経済的に困窮状態に陥っている在留邦人を「困窮邦人」と呼ぶ。所持金を滞在先で使い果たし、路上生活やホームレス状態を強いられている吉田のような日本人のことだ。特にフィリピンではこの困窮邦人が一般的な問題になっており、在留邦人の間でも、その存在はよく知られている(P.021)。

「困窮邦人は自分の都合のいいことしか言わない」
フィリピンの事情に精通したある日本人男性が言った言葉だ。私は取材相手の過去の経歴などについては、一度聞いた内容にブレがないかどうか確かめるため、同じ質問を繰り返し、発言内容の一貫性を追求してきた。しかし、バクララン教会で生活を続ける吉田は、逆に「僕、前何て言いましたっけ?」と何度も聞き返してきては、これまで私に話した内容に無理に整合性を持たせようとするところが再三見受けられ、事実関係が食い違うことが何度もあった。であれば、その真偽を確かめなければならない(P.067)。

フィリピンの捜査員には「偽札=重罪」という認識が日本に比べて希薄なのか、事件発生から数日後、犯人特定や製造元につながる有力情報を得られないまま、捜査は事実上終了してしまった。これには、捜査員の給与が安く、捜査費用も基本的には支給されない上に、事件現場まで行く交通費や車の燃料まで自腹で賄わなくてはいけないという途上国特有の事情も大きく関係していた。ちなみに知人の警察官によると、一般の、キャリア組でないフィリピンの警察官の給与は1ヵ月1万2000~2万5000ペソ(約2万4000~5万円)程度である(P.143)。

国援法が公布されたのは1953年。この法律はもともと、戦後にブラジルやドミニカ共和国等の中南米に移民した日本人の帰国支援を実施するために作られたとされる。
現在は、海外で無一文になった日本人に対して公費で帰国を支援する際に適用されている。貸付額は基本的に飛行機代と宿泊代金や食費、空港施設使用料などの雑費。雑費に関しては「合理的な範囲で貸し付ける」(外務省筋)という。また、日本の空港から自宅や知人宅までの交通費も貸し付けることがある(P.206)。

息子と娘の子供2人について尋ねた時は、星野はこう語った。
「一切考えないことにしている。切ったもんは切ったことにしている。そういうのはは切れるんだよね。いきなりフィリピンに来てるから後ろめたいもんはあるでしょう。申し訳ないという気持ちもあるわね。考えても始まんないし、どうなるもんでもないでしょう。一応、息子と娘の2人が大学を卒業するまではやったっていうのはあったで。親として最低限はな」一切考えないことにしているのは、考える時があることの裏返しか。私はそう受け取った。
フィリピンへ来るために犠牲にした代償を星野は未だに背負い続けているように見えた(P.257)。

このテーマの取材のきっかけになった80歳手前の老人は、ある時、粗末な掘っ立て小屋の中で突然怒り出した。「今すぐにでも帰国したい」と無茶な話を執拗に繰り返したため、私が制した時だった。「あなたは俺のこと何も知らない。あなたには俺のことこれ以上話さない方がいいと思う。毎日苦しい思いして飯食ってんだよ。これで死んじゃったら、俺のたれ死にじゃない」それまでは取材を快く受けてくれたこの老人の本音が飛び出した瞬間だと思った。のたれ死にしそうな境遇に置かれた老人の心境について、給料を稼いで生活に不自由しない私が理解できるわけがなかったのだ。だが、理解しよう、何とか援助してあげようという私の思い上がりがおそらく、この老人の逆鱗に触れたのだ。これを境に私は変に臆することになり、その後、気を遣ってばかりいた。彼もどことなくよそよそしく感じて少なくともこの2人からは「こいつ、人の気持ちも分からずにネタにしやがって」と思われていたことだろう。もしかしたら今回取材した対象者全員かもしれない。人は対等ではいられないという現実をまざまざと突き付けられたようでもあった(P.278)。

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