『オタク学入門』

岡田斗司夫
新潮社

読後の感想
この本を読むまでは(実は)自分はちょっとしたオタクだと思っていましたが、本当はただちょっとだけそっちにかぶれていただけの、サブカルっぽいものが好きな形だけのヤローだったと気付きました・・・、と正直に告白します。

このように自分自身のことに対する見方が変わるほど視点の変換がありました。有り体に言うとパラダイムの変換というか、そんなところ。他にいい表す言葉が見当たりませんが、後頭部をガツンと殴れた感じがしました(いい意味で

具体的には、オタクとはある作品について(もしくは作者とかジャンルとか)に詳しいことを言うのではなく、視点・思想であるという定義についてのお話。つまり「オタク」というのは主義者みたいなものである、ということです。何を見ても、その主義者としての視点から語れるのがオタクであるということは、裏を返せば「何を見てもその視点から語れないとそもそもオタクではない」ということなのです(たぶんね

確かに言われて見れば、確かにマトリックスなどの映画も、攻殻機動隊みたいなアニメも、ももいろクローバーみたいなアイドルも同じ土俵や物差しで語れる、みたいな人を僕はまさにオタクと感じているような気がします(何度も書きますが僕がそう感じているだけです)。

何を見ても同様の視点から見られる、いわゆる定点観測をしていれば、当然目も肥えてくるし、違いにも敏感になります。となると一言申したくなるし、多弁になったりするわけです。

そういう意味では、視決してアニメキャラのTシャツを着て紙袋を持ってリュックをしょっているからオタクではなく、何の話をしても最終的にはガンダムや攻殻機動隊の話になってしまう人(目標)もやっぱりオタクなんだなぁ、としみじみ思いました、よかった。

ちなみにこの本を読むと、ルパンとかエヴァンゲリオンが激しく見たくなります。僕もカリオストロの城を見直してしまいました(そして作者の言いたいことが本当によく分かりました)。

印象的なくだり
アニメだけが好きな人間は単なるファン又はマニアでしかない。単独のジャンルだけに興味を持つ、というのはオタク的な価値から大きく外れている
(中略)
オタクなセンスというのは、たとえば「アメリカンウェイ」とか「フェミニズム」「エコロジー」みたいなもんで一種の価値観・世界観だといえる。たとえばエコロジーを例に考えてみよう。
正しいエコロジストの在り方は「環境保全・保護」というコンセプトにそって自分の行動を決めることだ。「クジラを殺すな!」なんてステッカーを貼ったスポーツカーに乗って、排気ガスをまき散らして暮らす、なんてのはエコロジストではない。そいつはただ単なる「クジラ好き」だ。
自然保護・環境保全・代替エネルギーの立案・リサイクル・非大量消費社会への動き。正しいエコロジストのやるべきことは山のようにある。
これと同じく、アニメしか見ないオタクはタダのアニメファンだ。クジラのことしか考えない人がエコロジストではないのと同じである。アニメを考え、それを深く追求すればするほど、他のオタクジャンルに無関心でいられるはずがない。
確かにアニメはオタキズムのホームグラウンドだ。けど、ゲームにも特撮にも洋画にもマンガにもオタク度の高い作品はいっぱいある。で、実はそういった作品は互いにものすごく影響を与えあっている。それをジャンルクロスして見抜き、楽しむのが「オタク的な見方」なのだ(P042)。

つまり抽象化というのは要するにデフォルメと省略のことだ。自分の印象深いものをデフォルメする。その他の部分は省略、もしくは縮小する。どこをどのくらいデフォルメするか、それが画家のセンスだ。と同時にそのイメージ通りに描くには当然鍛えぬかれた技術が必要なのだ(P141)。

どんな国の映画界にも「戦意高揚映画」、つまり「戦争ってかっこいいなぁ映画」はある。とりわけ熱心だったのはアメリカで、ウォルト・ディズニー・プロだって戦争中はえげつないアニメを山ほど作っていた。アメリカの陸・海軍もそういった映画には全面的に協力した。撮影のために本物の飛行機や戦車をバンバン動かしてくれたのだ。
けれど、アメリカと違い、日本軍部は映画のために戦闘機や戦艦を動かしたりしてくれなかった。それどころか、資料や写真も借りられない。機密保持の方針が厳しかったからだ。
仕方なくミニチュアの飛行機をワイヤーで吊って飛ばし、でっかいプールに模型の戦艦を浮かべた。本来ロケに使う予算で贅沢な特撮セットを組んだわけだ。
そのとき作ったプールや培ったミニチュアの技術、スタジオ等が戦後の怪獣ブームの基礎となった。逆に、アメリカは軍からもらう実写フィルムや軍の飛行機を実際に飛ばしてもらう手法ばかりに頼っていたため、特撮技術は少しも進歩しなかったのだ(P162)。

メインカルチャーの子供観
メインカルチャーとはおおざっぱにいうと、アート、文学、科学、歴史、クラシック音楽といったアカデミックかつクラシックなもの。もっと平たくいうと大学で昔から研究してきたようなもののことである。
彼女たちが所属しているヨーロッパ文化圏では、メインカルチャーを身につけるのが当たり前である。それも出来ない人は「クラスが低い」とされてしまう。いまだ階級社会の色合いを強く残しているヨーロッパでは、「メインカルチャーを身につけず、自ら階級を下げる」なんてことは半分自殺行為のようなものだ。
で、そんな社会でも「子供のための文化」は存在する。ただし、これは「子供が楽しむため」のものではなく、「子供をちゃんとしうた大人に教育するため」の文化だ。「ちゃんとした大人」とは、「自我を確立した市民」という意味。わかりにくければ、「メアリーポピンズ」や「ピーター・パン」に出てくる父親のように、銀行員や実業家、役人といった「立派な人たち=階級社会の市民」と考えてもらっていい。
アカデミックな教養があって、社会的信用も高い立派な大人。子供はみんなこういう立派な大人・市民になるべきだ、というのがメインカルチャーな考え方だ。そのための教育を目的として与えられるのが子供文化だ。
現在、日本でも若いおかあさんたちに人気の高いヨーロッパの知育玩具といったものは、、みんなそのポリシーで作られている。レゴやパズルなど、日本でもメジャーなおもちゃはもともとすべてそういう目的で作られたものなのだ。
この子供文化に対する考え方は、一見当たり前のようの聞こえるが、実は日本人の考え方と全然違う。ヨーロッパでは、子供にそういった安全で教育的なもの「しか」与えないのだ。テレビ番組を自分で選ばせるとか、テレビゲームを次々と買い与える、といったことは一切ないのが本来のメインカルチャーな考え方なのだ。「子供文化」とは子供たちが作る文化ではなく、「大人が与えるべき文化」でしかありえない。
そういった価値観からとらえると、日本のアニメはもちろん子供の教育のための文化に入るわけはない。教育的な要素がないどころか、人を殴ったり下品だったりで反教育的な要素がたっぷり含まれている。それを見続けることによってアートや音楽に関しての見識も深まったりしない。合格ラインの作品などゼロだ。
こういったものを子供に与えるなんて考えられないというのがヨーロッパのメインカルチャーの方々の考え方だ。こういった人たちにとって、日本のアニメは「サブカルチャー」に見える。大人に反抗する文化「カウンターカルチャー」、立派な大人になりきれないオチこぼれの若者が作る文化、「サブカルチャー」。
だから、ちゃんとした大人と自分をとらえている人たちは日本アニメを相手にしない。子供たちをちゃんとしたメインカルチャーに導いてあげるのが、大人の義務と責任だから(P341)。

日本文化では、粋を理解する客がいなければ文化は成立しえない。現在、古典落語が滅びつつあるのも、落語の世界の約束事を理解する客が減ってしまったためだといえる。
どんなに世界を守って趣向を凝らしても、そこのところをわかってもらえなければ仕方がない。どう趣向を凝らせばおもしろいかわからなくなってしまう。仕方なく、趣向なしでいつも同じ演出になっていく。そのため、ますますお客が減っていく、という悪循環が起きているのだ(P355)。

オタクというのは、作品論ではない。何をどう見るか、という視点の問題なのだ(P375)。