10センチの思考法
京谷好泰
読後の感想
経営者のお話と勘違いしたまま読み終えてしまいましたが、著者は経営者ではなく開発者。
極めて直感型の開発者で、まずは目標を作りその目標を達成するためにガンガンやるタイプ。
例えば、リニアを10センチ浮かす、というのも特に根拠はなく、1センチだと擦ってしまうから、一桁増やして10センチ、では10センチ浮かすためには何をどうすればよいのか?と突き詰めていくタイプでした。
まさに目的地をどこにする、と決断するタイプのリーダーです。
個人的にはちょっとだけ苦手なタイプなのです…。
そこが関係してくるのか否かは不明ですが、本書はカギカッコを多用し
連続で出てくるのですが、全部筆者の発言だったりします(独り言かッ)。
非常に読み手を選ぶ本。せっかく
人を動かすためのは、まず理解させなければならない。どうしてそういうことが必要なのか、ということが分からなければ、納得はできないだろう。古くなった食べ物に手を伸ばしている人がいて、「食べるな!」と怒鳴られるより、「それは古くなって痛んでいるから危険だよ」と言った方が、納得してやめてくれるのと同じである。相手の主体性をうながすのである。
理解がなければ、納得がない。納得がなければ、行動もない。まず第一段階の理解をクリアするためには、相手が分かる言葉で説明しなければならないのである(P109)。
といいことを書いていたりするのに、いわゆるモーレツ型で周りを困らせたり…。
いわゆるこの本を読んで真似をする中途半端に出来のいい秀才が、天才の真似をして痛い目に遭うパターンです、たぶん。
印象的なくだり
方法論とは、過去から生み出された理論であり、理論は公式でしかない。公式にあてはめて計算するなんて、そんなことは誰だってできる。マニュアル化されたものなのだ。
決断できないのは、マニュアルにとらわれすぎているのだろう。これまでの公式では、新しいものは生み出せない。過去の公式から新しいものを創ろうという考え自体、順序が違っている。理論はあとからついてくるものである。先にあってはならない(P016)。
これは一部は正しく、一部は間違っていると思う。
過去から学ばないと無駄なことをしてしまいがち。
失敗が蓄積されていない新しい分野ならアリの考え方かもしれないけど、決して一般化してはならないと思う。
端的に言うと、高度経済成長期だったから許された気がします。
もしくはリニアモーターカーという先端技術だったから。
今なら無駄と切り捨てられるでしょうし、そもそも過去のデータの洗い出しをすべきです。
自分の頭で考えてほしい。「これの一番元は何だろうか」「これはどうなっているのだろうか」という、素朴な疑問を持つようにすることだ。自分の頭で考える、哲学する習慣さえあれば、根幹は見えてくる。
つねに疑問符を掲げ続ければ、基礎能力は高まっていく。基礎力は、応用力も高めてくれるはずだ(P029)。
忠誠なら自分に誓え
私がニューヨーク郊外の研究所に通っていたのは、ちょうどベトナム戦争が激しい頃だった。ニューヨークでの日課は、朝のコーヒーショップ。ところがある日、カウンターでコーヒーを飲んでいると、隣の男が盛んにしゃべっている。
聞くともなしに聞いていたのだが、口角泡を飛ばしながら激しい政府批判をしている。そのうち私に向かってベラベラ不満をぶちまけてきた。初めのうちは話に付き合っていたのだが、そのうち私もめんどうくさくなって、こう言った。
「お前、そんなにこの国が気にいらんなら、出てきゃいいじゃないか。カナダでも南米でも、好きなとこへ行ったらどうだ?」
そのとたん、私はいきなりとまり木からひきずりおろされ、馬鹿力でズルズル引っ張って店の外へ連れて行かれた。私とはくらべものにならないほど大きな体つきをしたクソ馬鹿力の男である。喧嘩してもしょうがない、と腹を決めてついて行ったら、そこは駐車場である。
殴りかかってくるのかと思ったら、その男は自分の車を指さし、「見ろ!」と叫ぶ。
「俺はこの国を一番愛しているんだ。この国が大好きなんだ。いいか、俺は、いまの大統領が、政府が悪いと言っていたんだ。俺はこの国を出ていかんぞ、一歩も!」
彼の車には、アメリカの星条旗のステッカーが貼ってあった。
私は胸をうたれた。そして愛国心と忠誠心が別のものであることを理解した。
本当の意味での愛国心がアメリカの一般市民のなかにどのように根づいているのか、その具体的なかたちを思い知った気がした。
もし戦前の日本人のなかに、この男と同じ言動をする人間がいたら、まずまちがいなく「非国民」として排斥され、どこにも居場所はなかっただろう。当時、多くの日本人の胸のうちにあったものは「愛国心」と「忠誠心」だった。ところがこのふたつはときに混同され、また軍部やマスコミに利用されて、天皇に対する絶対服従的な意味合いを帯びて行き、忠誠心がすべてになってしまった。
しかし、これはおかしなことだ。愛国心と忠誠心は、一致するものではない。愛国心は国を誇りに思い、国を思って行動することである。ところが忠誠心は二心を持たず、国ために働くことが求められる。間違ったことでもいいなりになる危険性をはらんでいる。
本当に国を愛している人間ならば、そのときの政府が誤った道に進もうしているとき反対するだろう。前の戦争は、それが許されない時代だったのだ。忠誠心という耳に響きのよい言葉にすり替えられ、体制側に都合よく扱われていた(P051)。
優れたリーダーの周りには、人が集まる。ビジョンがはっきりしているからだ。プランが明確になっているから、他人を説得させられる力がある(P106)。
確かにビジョンを共有させるのは優れたリーダーの資質の一つだと思う。
「分からない」のは、「分かる」ための第一段階でもある。分からないからこそ好奇心が生まれてくるものだし、分かるために努力している間に、自分なりの答え、考え方、姿勢も生まれてくるものだ。
権威を恐れているのだろうか。
分からないことを悟られたら恥だとでも思っているのだろうか。
分からないことは恥ではない。分かった瞬間に、自分の知識になっている。分かり顔でその場を無難に過ごしていては、知識をつけるせっかくのチャンスを逃していることにほかならないのではないか。その場をしのいでも、分からないことを分からないままにしておくことの方が、よっぽど恥であることに気がついてほしい。分かり顔は、大きな損失を招く第一歩である(P132)。
自戒を込めて。
愚かな人は、目下の人間の意見を取り入れることは自分の沽券に関わると思ってしまうのだろう。表面的には賛成するようなポーズを見せるものの、決して素直に従おうとはしない。
「君の言うことも分かるけどね。なかなかそう単純にはいかないんだ」とかなんとか、問題や論点をはぐらかす。ちっぽけな権威主義に毒されているのだ。
ポーズで耳を傾けても意味がない。意見に真実があると思ったら、それを採り入れすぐに実行すべきだ。そうでなければ、目的を成し遂げることはできないだろう(P184)。
どんなに仕事が遅くても、その人の人柄が悪いわけではない(P189)。