『「上から目線」の構造』

「上から目線」の構造
榎本博明

読後の感想
「上から目線」と言う言葉はいつから使われだしたか分かりませんが、いつの間にか日常に入り込んでweb上ではよく見るようになった気がします。
読む前には内容的に相手に正当性がある、けど何か言い返したい、というときによく使われるのかな、内容の正当性ではなく手段方法について文句を言っているのかなという印象でしたが、実はそうではなく受け手の問題だよ、という内容でした。

つまるところ受け手側のスキーム・価値観が、「どっちが上位・下位か」に重きを置いているので、全体的な感じ方が内容よりも上位・下位かが中心になってしまうよ、という内容であり、ふむふむと読んでいたのですが、ということは、じゃあ「上から目線」と感じてしまう人は、何を言ってもダメ、ということなのかなぁ?と感じました。

ところで、こういった若者観を書いた本の決定的な欠点は、じゃあどうすりゃいいの?という問題に対して解の手がかり自体を示してくれないことなのですが(もちろん解説書としての意味も大きいのですが)、本書もご多分に漏れず「まぁ頑張れ(意訳)」という内容でした。最後の最後で、自分を鍛えろ、なんて結びだったので正直ずっこけました。

くさしてばかりも何なので誉めるならば、非常に綿密な取材で最近の若者事情の雰囲気が伝わってきて良かったです。読み物としては非常にライトでサクサク読めました。

おしまい

印象的なくだり

相手が親切で言ってくれたという解釈より、相手が優位に立ってものを言ってくるという解釈に重きを置いている。ゆえに感謝の気持ちなど湧くもない。アドバイスをしてくるという姿勢が、こちらに対する優位を誇示しているように感じられてならない。だから、ムカつく。バカにするなと言いたくなる。
(中略)
あえて上位・下位、優位・劣位といった図式を用いるとしたら、アドバイスしてくれた上司や先輩の方が上位・優位に立っているのは否定しようのない客観的な現実である。その現実に基づいて、親切心からアドバイスをしてくれた相手に対して、「こちらに対して優位を誇示している」ように感じる。そこに見え隠れしているのは、「見下され不安」である。
見下されるのではないかといった不安が強いために、本来は役に立つアドバイスも、こちらに対して優位を誇示する材料と受け止めてしまうのだ。見下され不安の強い心の目には、親切な態度が見下す態度に映る。その結果、感謝どころか、「その上から目線はやめてください」となる(P.026)。

日常生活でしばしば耳にする「プライド」という言葉。これもけっこうクセモノである。
「彼はプライドが高いから、扱いに注意しないといけない」
「あの人はプライドが高いから、うっかりしたことを言うとひどい目に遭う」
そのように周囲から言われている人は、ほんとうはプライドが高いのだろうか。こういったコメントを耳にするたびに、プライドという言葉の誤った使われ方がいつの間にか広まってしまったのではないかと思えてならない。
なぜなら、右の例で言えば、どちらのコメントも、「プライドが高いから」の箇所を「わがままだから」と入れ替えても、文意はほとんど変わらないように思われるからである。
「彼はわがままだから、扱いに注意しないといけない」
「あの人はわがままだから、うっかりしたことを言うとひどい目に遭う」
入れ替えても、伝えたい意図は問題なく通じるはずだ。そうなると、「プライドが高い」というのは「わがまま」という意味だということになる。それはまずい。本来ならプライドというのは、わがままとは反対に、ポジティブな意味を持つはずなのだ。
(中略)。
英和辞典で”pride”の意味を調べると、「誇り、自尊心」という意味と「うぬぼれ、思い上がり、高慢」という意味の両側面がある。前者が本物のプライドで、安定的に高い自尊心を指すといってよい。後者は、プライドを保ちたいという強烈な気持ちの表れであり、しょっちゅぐらつくのを何とか高い水準に保とうとして格闘している脆い自尊心のことだといってよいだろう(P.042)

コンプレックスというのは合理的な行動を導くのではなく、人間の心の衝撃層を刺激する。その場限りの快感や発散を求める行動に導く習性がある。理性的思考とはまた別の心の部分を刺激する。ゆえに、仕事面ではそれなりに頭の働く人間が、心の深層に抱える「劣等コンプレックス」に駆られて、衝動的な行動をとったりすることも起こるのだ(P.057)

対人不安とは、自分が他人の目にどのように映っているか、あるいはどのように映ると予想されるかをめぐる葛藤によって生じる不安である。
対人不安の強い人は、他者の目に映る自分の姿が自分の望むようなものになっていない、あるいはならないのではないかといった不安の強い人といえる(P.125)。