『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』

『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』
日経BP出版センター
ジェームズ・C. コリンズ, 山岡 洋一

読後の感想
膨大なデータからある一定の法則を読みとり理論化するといった論文の原則をきちんと踏んでいるせいか、非常に説得力にある流れになっており、研究者っぽいなぁと思いつつ読みました。
規律に厳格なのは日本で、アメリカは緩いと考えがちでしたが、実際の運用は逆なのかなぁと思いました。
つまり、日本の場合は内的に緩く、外的に厳しいので、上層部ほど厳しい基準を適用するのは若干抵抗があったりします。ところが逆にアメリカの場合は、上層部ほど厳しい基準を自らに課すことが可能なのです。ヨーロッパだとある意味ノブレス・オブリージュなのかも。

印象的なくだり
飛躍した企業は、偉大になるために「なすべきこと」に関心を集中させたわけではなかった。それと変わらぬほど、「してはならないこと」と「止めるべきこと」を重視している(P015)。

第五水準の指導者は成功を収めたときは窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出す(具体的な人物や出来事が見つからない場合には、幸運をもちだす)。結果が悪かったときは鏡を見て、自分に責任があると考える(運が悪かったからだとは考えない)(P056)。

飛躍を導いた指導者は、三つの単純な真実を理解している。第一に、「何をすべきか」ではなく「だれを選ぶか」からはじめれば、環境の変化に適応しやすくなる。人びとがバスに乗ったのは目的地が気に入ったからであれば、十キロほど走ったところで行く先を変えなければならなくなったとき、どうなるだろうか。当然、問題が起こる。だが、人びとがバスに乗ったのは同乗者が気に入ったからであれば、行く先を変えるのははるかに簡単だ。「このバスに乗ったのは、素晴らしい人たちが乗っているからだ。行く先を変える方がうまくいくんだったら、そうしよう」。第二に、適切な人たちがバスに乗っているのであれば、動機付けの問題や管理の問題はほぼなくなる。適切な人材なら厳しく管理する必要はないし、やる気を引き出す必要もない。最高の実績を生み出そうとし、偉大なものを築き上げる動きにくわわろうとする意欲を各人がもっている。第三に、不適切な人たちばかりであれば、正しい方向が分かり、正しい方針が分かっても、偉大な企業にはなれない。偉大な人材が揃っていなければ、偉大なビジョンがあっても意味はない(P066)。
偉大な企業はおそらく、職場としてみた場合に厳しいところだと思えるだろう。たしかに厳しい。会社が求める資質がなければ、たぶん長くははたらけない。しかし、これら企業の文化は冷酷ではない。厳格なのだ。この違いは極めて重要である。
冷酷とは、事業環境が悪くなると人員を大幅に削減したり、普段でも、真剣に検討することなく気まぐれに解雇したりすることを意味する。厳格とは厳しい基準をつねに、組織内のすべての階層に適用し、とくに上層部に厳しく適用することを意味する。厳格であって冷酷ではないのであれば、優秀な従業員は自分の地位を心配することなく、仕事に全神経を集中させることができる(P083)。

延々と待ったすえに行動を起こすのでは、バスから降りる必要がある人たちに対しても不当な行動をとることになる。いずれ降りてもらうしかないと分かっているとき、その相手に席を与えつづけていては、相手の一生のうちそれだけの時間を盗むことになる。相手はその時間を、力を発揮できる場所を探すのに使えたはずなのだ。そして、もっと自分に正直になって考えてみれば、延々と待ちつづけるのは、相手を気づかっているからではなく、その方が自分にとって楽だからであることに気づくはずだ。そこそこ仕事はこなしている訳だし、別の人材を探すとなればかなり苦労する。だから、問題を避けているのだ。あるいは問題に真正面から取り組もうとすると一苦労だし、不快でもある、苦労と不快を避けたいので、ひたすら待ちつづける。待って待って待ちつづける。そのとき、周囲の最高の人たちはみな不思議に思っている。「いつになったら行動するのだろう。いったいいつまで、こんな状態がつづくのだろう」と(P090)。
適正な人たちがバスに乗るようにすれば、全員が偉大なものを築こうという意欲をもっている。したがって、ほんとうの問題はこうなる。「従業員の意欲を挫かないようにするにはどうすればいいのか」である。そして、やる気をなくさせる行動のなかでも、すぐに失望させられる根拠のない期待を主張することほど最悪のものはない(P117)。

ストックデールの逆説
どれほどの困難にぶつかっても、最後にはかならず勝つという確信を失ってはならない。そして同時に
それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視しなければならない(P137)。

バーリンはこの短い寓話に基づいて、人間を狐型と針鼠型という二つの基本型に分類した。狐型の人たちはいくつもの目標を同時に追求し、複雑な世界を複雑なものとして理解する。「力を分散させ、いくつもの動きを起こしており」、全体的な概念や統一のとれたビジョンに考えをまとめていこうとはしない。これに対して針鼠型の人たちは、複雑な世界をひとつの系統だった考え、基本原理、基本概念によって単純化し、これですべてをまとめ、すべての行動を決定している。世界がどれほど複雑であっても、針鼠型の人たちはあらゆる課題や難題を単純な、そう、単純すぎるほど単純な針鼠の概念によってとらえる。針鼠型の人たちにとって、針鼠の概念に関係しない点は注目するに値しない(P145)。

どの組織も針鼠の概念を見つけ出すことができるだろうか。あるとき目が覚め、厳しい現実を誠実に見つめるようになって、「世界一といえる部分はどこにもないし、これまでにもなかった」との結論に達したとすれば、どうすればいいか。この点にこそ、今回の調査でもとくに素晴らしい発見があった。選ばれた十一社の半数以上は、世界一だといえる点はどこにもなかったし、世界一になれる見込みもなかった。だが、どの企業もストックデールの逆説を信じて、こう考えた。
「世界一になれる点がどこかにあるはずだ。それを探し出してみせる。世界一になれない点がある現実も、直視しなければならない。
この点で幻想を抱いてはならない」。そして、そのときの状況がどれほど惨めであっても、針鼠の概念を見つけだすことができている(P184)。

自由は全体の一部でしかなく、真実の半分でしかない。・・・・・・だからこそわたしは、東海岸の自由の女神像に対して、西海岸に責任の女神像を建てるべきだと主張している。ビクトール・E・フランクル「意味の追求」(P191)。

偉大な実績に飛躍した企業は、はっきりとした制約のある一貫したシステムを構築しているが、同時に、このシステムの枠組みの中で、従業員に自由と責任を与えている。みずから規律を守るので管理の必要のない人たちを雇い、人間ではなく、システムを管理している(P200)。

コッテージ・チーズを洗う(P203)。

飛躍を遂げた企業は、恐怖によって動かされてはいない。自分たちが理解できないことへの恐怖によって動かされてはいない。馬鹿にされることへの恐怖によって動かされてはいない。他社が大成功を収めるのを指をくわえてみる羽目になることへの恐怖によって動かされてはいない。競争で打撃を受けることへの恐怖によって動かされてはいない(P258)。
重要な点はこうだ。通常、偉大な企業への転換が外部からどう見えるかをもとに、内部で転換を経験した人たちがどう感じたはずかを考えている。外部から見れば、転換は劇的で、革命的ともいえるほどの飛躍だと思える。しかし内部から見れば、印象がまったく違っていて、生物の成長に似ている(P269)。

傑出した人材が不足しているいま、「最初に人を選ぶ」規律をどうすれば実行できるのか
第一に、組織の最上層部については、適切な人材が見つかるまで雇用しない規律を絶対に守らなければならない。偉大な企業への道を歩むとき、最大の損害を及ぼす誤りは、不適切な人を主要なポストにつけることである(P342)。

「適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろす」規律を実行に移そうとしても、教育・研究機関や政府機関など、不適切な人をバスから降ろすのがきわめてむずかしい組織の場合、どうすればいいのか
おなじ基本的な考え方を適用するが、達成までに時間をかける。たとえばある大学の医学部は一九六○年代から七○年代にかけて、飛躍的に充実した機関となった。教授陣を全員入れ換えたが、それには二十年かかっている。終身教授を解雇するわけにはいかないが、ポストに空きができるごとに適切な人を雇用し、徐々に雰囲気を変えて、不適切な人が居心地の悪さを感じるようになり、引退するか余所に移るようにした(P343)。

『考える技術』

『考える技術』
講談社
大前 研一

読後の感想
論理力が人を動かす、事実を積み重ねて論証する。相手の求めていることを的確に判断するなど、コンサルの人らしいなぁと思う記述が満載でした。
考える技術は、一朝一夕で身に付くものではなく、常に仮説と確認、反復と継続をしていかないとダメというのは当たり前だけど、重い言葉でした。
なにより行動が具体的です。
ちなみにblogによると、この本を購入したのは2008年4月3日、一年半以上積読になっていたわけですが、ようやく読めました。
というよりも、積読になっていたから読めたわけであり、そもそも購入していなかったら読むこともなかったわけです。というわけで、積読万歳(←結論

印象的なくだり
繰り返すが、問題解決に必要なのは、まず事実を認めた上で「正しいことは何か、なすべきことは何か」と考えることである。たとえ社長が反対の立場であっても、それを説得する勇気をもつ。どんなに相手が嫌がっても、事実に対しては忠実になる。これが問題解決の代原則である(P124)。

同質性のある中で、さらに立場や部門、あるいは派閥によって、より同質性の強い人間だけで固まる癖がある。そこでは居心地のよさ、同質性の維持こそが第一の命題になってしまいがちだ。だから会社が非常に大きな問題に直面したときに、事実を素直に受け止めて、それを自分や自社にとってのチャレンジだと思ってぶつかっていく精神がないし、そうしたトレーニングが日本人および日本企業の中には、ほとんどないと言っていい。たとえば、雪印乳業が北大の農学部を中心にまとまっていたのは薄気味悪いくらいである。卒業年次で会社の順列が決まり、会社存亡の危機に襲われたときには、もろくも崩れてしまった。
対照的なのはアメリカで、もともと異質な人たちがいるうえに、中西部と東部と西部ではカルチャーが全然違う。あらゆる人種や民族が集まっているし、宗教を見ても多種多様だ。たとえば一○人のチームを組むと、集まったメンバー全員が違う背景を持っていることも珍しくない。
彼らは学校時代から異質な者同士の集まりの中にいるから、自然と問題を解決していくトレーニングのチャンスが多い。世界企業を運営していくとき彼らのほうに一日の長があるのは、ある意味で仕方のないことだろう。
だからこそ、日本企業の中でもトヨタのように世界のトップで戦っている会社は、常にトップが新たなチャレンジを掲げ、社員たちは皆「自分たちが一つでもサボったら、明日にも潰れるかもしれない」という危機感を共有している。日本一の収益を誇る会社が、ほかの会社よりもむしろ危機感を持ってやっているのである(P127)。

「考える」とは、つねに質問をし、自分で答えを一生懸命に見つけると
いうことだ(P204)。

『考える技術』大前研一

『竹中式マトリクス勉強法』

『竹中式マトリクス勉強法』
竹中平蔵
幻冬舎

読後の感想
孤高の人、努力家のイメージそのままの本でした。初等教育と基本を重視していることから分かるように、従来型の勉強方法の本でした。
最近の流行とは一線を画しており、個人的には共感できますが、内容は正直マトリクスしか残らないというところでしょうか。
勉強法もいうよりも、勉強の楽しさを教えてくれるような気がします。

印象的なくだり
学ぶことは、楽しく、尊いことです。なにかを知りたい、自分を変えたいと思った瞬間、あなたの勉強はスタートするのです(P006)。

また、本はいつまで取っておいても、実際手に取るかどうかは疑問です。特に経済や経営関係などは、”賞味期限”もあります。そこで私は思い切って、「とっておき」という本以外はどんどん捨てるようにしています。
さて、捨てるべきかとっておくべきか、ほんの始末の選別についてですが、判断のポイントは「いつでも手に入るか」を基準にするといいでしょう(P092)。

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』
湯浅 誠
岩波書店

読後の感想
公共性の高い生活保護という制度は、フリーライダー(悪用・ただ乗り)されるよりも、制度が機能不全に陥る方が圧倒的に、存在として致命的だと感じました。つまり、制度が「ある」のに利用できないのは、「ない」よりも絶望的なのです。
また、貧困の問題が安易な自己責任論に帰結する論理は問題の本質を誤ってとらえており、筆者の言うとおり、「溜め」と呼ばれる余裕がないことが主な原因の一つだと感じました。生活に余裕がないことで、社会の変化に伴う予期できない変化、出来事に対してクッションがなく、影響を直接的に受けてしまうからです。
この二点から推測できることは、防貧と救貧を分けて防貧対策をする必要があるということです。

印象的なくだり
「このままではまずい」と「どうせ無駄」の間をつなぐ活動を見つけなければならない。そうした活動が社会全体に広がることで、政治もまた貧困問題への注目を高めるだろう。関心のある人たちだけがますます関心を持ち、関心のない人たちが関心のないままに留め置かれるような状態を乗り越えたい。貧困は、誰にとっても望ましくないもの、あってはならないものである。ここでこそ、私たちの社会がまだ「捨てたものではない」ことを示すべきだ(P.vi)。

生活保護法は、住所不定状態の場合に、現在いる場所での生活保護申請を認めている(一九条一項二号)。したがって「自分の住所を定めてからでないと、何もできない」というのは、明らかな違法対応である(P053)。

期待や願望、それに向けた努力を挫かれ、どこにも誰にも受け入れられない経験を繰り返していれば、自分の腑甲斐なさと社会への憤怒が自らのうちに沈殿し、やがては暴発する。精神状態の破綻を避けようとすれば、その感情をコントロールしなければならず、そのためには周囲(社会)と折り合いをつけなければならない。しかし社会は自分を受け入れようとしないのだから、その折り合いのつけ方は一方的なものとなる。その結果が自殺であり、また何もかもを諦めた生を生きることだ。生きることと希望・願望は本来両立すべきものなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となるような状態。これを私は「自分自身からの排除」と名付けた(P062)。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センという学者がいる。彼は、新しい貧困論を生み出したことで知られている。彼の貧困論は、選択できる自由の問題と深く関わっている。
 センは「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない」と主張する(「自由と経済開発」石塚雅彦訳、日本経済新聞社、二○○○年)。それは「所得の低さ以外にも潜在能力に-したがって真の貧困に-影響を与えるものがある(所得は潜在能力を生み出す唯一の手段ではない)」(同上)からだ。また「貧困とは受け入れ可能な最低限の水準に達するのに必要な基本的な潜在能力が欠如した状態として見るべきである」(「不平等の再検討-潜在能力と自由」池本幸生訳、岩波書店、一九九九年)とも述べている(P075)。

「潜在能力の欠如」(自由に選択できないという不自由)は、個人的な要因であると同時に、社会的・環境的な要因でもある。ニューヨークのハーレム地区でたまたま七○歳や八○歳まで生きる人がいるからといって、「他の人たちには努力が足りない」と、平均寿命の短さを早く死んでしまう人たちの自己責任で裁断することは妥当ではない。必要なのは、その地域や個人の諸条件を改善して、長寿を可能にする環境を整えることだ(P077)。

見えない貧困
貧困の実態を社会的に共有することは、しかし貧困問題にとって最も難しい。問題や実態がつかみにくいという「見えにくさ」こそが、貧困の最大の特徴だからだ。
(中略)
日本だけではない。前述したシプラー「ワーキング・プア」の副題は、原語では文字通り「Invisible in America(アメリカの見えない者たち)」だった。ワーキング・プアの低賃金労働を体験した女性ジャーナリストが執筆した「ニッケル・アンド・ダイムド-アメリカ下流社会の現実」(バーバラ・エーレンライク、曽田和子訳、東洋経済新報社、二○○六年)も、その「見えなさ」を次のように強調していた。
「富める者と貧しい者が両極端に分化した不平等な私たちの社会は、いとも不思議な眼鏡を生み出し、経済的に上位にある者の目には、貧しい人々の姿はほとんど映らない仕組みになっている。貧困層のほうから富裕層を、たとえばテレビとか雑誌の表紙とかで、簡単に見ることができるのに、富裕層が貧困層を見ることはめったにない。たとえどこか公共の場所で見かけたとしても、自分が何を見ているのか自覚することはほとんどない」(P085)。

誰もが同じように「がんばれる」わけではない。「がんばる」ためには、それを可能にする条件がある。「自分は今のままでいいんスよ」という言葉が、現状への充足感を表現しているのか、それとも諦観や拒絶・不信感に基づくものなのか、それはその人の”溜め”を見ようとする努力の中で見極められなければならない。そして後者の場合、その言葉は何よりも”溜め”を回復するための条件整備を求めている。そのとき、”溜め”を増やすことなく、ただ御題目のように「がんばれ。誰だってそうしてきた。誰だって大変なんだ」と唱えても、状況を好転させることはできない(P091)。

大きな組織力を背景に持たない一個人が何かを言ったりやったりしてもどうせ無駄、という閉塞感が広がっている、と言われることがある。それは、政治に対する不信感の増大という以上に、社会に対する信頼の失墜である。世の中の誰かにちゃんと受け止めてもらえるという信頼感をもてなければ、何かを訴える意欲は出てこない。それが孤立ということであり、「どうせ自己満足にすぎないだろう」という社会的活動に対する皮肉から、「自分のことなどどうでもいい」という「自分自身からの排除」に至るまで、社会に対する信頼感の失墜は立場や階層を越えてさまざまな反応を引き起こす(P108)。

指示系統がはっきりしない。初めての人ばかりなので、誰に何を聞けばいいかわからない。高い中間マージンを取られる。仕事ができない、使えない、と軽く見られる。誰もやりたがらない手間のかかる仕事をやらされる。日替わりゆえ、蓄積がない-日雇い派遣には、人々のやる気を削ぐ要素が満載されている。低賃金で雇用が不安定というだけではない(P145)。

強い社会を
少なからぬ人々が普通に外を出歩けない状態は、その人たちの側に「問題」があるのではなく、社会の側に「問題」がある。その意味で、社会の「障害」、社会の「不自由」である。そして、この考え方はそのままアマルティア・センの貧困観と結びつく。普通に外を出歩くという「機能」を達成するための「潜在能力」を奪われているという意味では、これは貧困問題でもある。
人々に働く場所や住むべきアパートを確保できないという社会の不自由、社会の”溜め”のなさによって、野宿者や「ネットカフェ難民」が生み出されている。貧困問題も、本人の「問題」ではなく、社会の「問題」である。八尋氏に倣って次のように言うことができる。「貧困は人にはないよ、社会にあるんだ」。
なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。貧困状態にまで追い込まれた人たちの中には、立派な人もいれば、立派でない人もいる。それは、資産家の中に立派な人もいれば、唾棄すべき人間もいるのと同じだ。立派でもなくかわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会自身の弱体化の証だからに他ならない。
貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。
人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる、「強い社会」を目指すべきある(P209)。

『グリーン革命(上)』

『グリーン革命(上)』
トーマス・フリードマン
日本経済新聞出版社

読後の感想
個人でできることは余りにも小さく、そのような行為をしても、企業や国家の前では軽く吹き飛ばされてしまう。こんな風に知りつつ立ち向かう、といった勇気を与えてくれた本です。上巻は総論的な事柄に終始しているので、知識として有意義でした。
ところで、第四章のサウジアラビアとエジプトの関係について、同様のことが日本とどこかの国で(今後も)起こりうるのではないかと、ビクビクしております。

印象的なくだり

現在の勃興する経済勢力や資本家にとって暗いニュースは、資本主義への離陸期に燃料を供給するための未開拓のコモンズが残り少ないことだ(P106)。

いつの日か、冷蔵庫や電子レンジやテレビのような家電製品ばかりか、自動車まで、すべてリースでまかない、メーカーに戻して何度もくりかえし完璧にリサイクルする。ゆりかごから墓場へではなく、ゆりかごからゆりかごへと。この手法のさまざまな形が、フラット化した世界での経済成長にとって、唯一の有効な解決策だろう(P109)。

私はよく”地中海のイスラム”と”紅海のイスラム”といういい方をする。イスラムの重心が、ベイルート、イスタンブール、アレクサンドリア、、アンダルシアをはじめとする海運と貿易と交流の世界である地中海に向けて進めば、イスラム教もそれに属する社会も、コスモポリタンの傾向を強める。イスラムが、荒々しく孤絶した砂漠、原油の源である紅海に向けて進めば、臆病に、内向きに、外国人嫌いになる(P138)。

アメリカ独立の標語は、「代表者(議員)なき課税はない」だった。石油主義専制国家の標語は、「課税なく、代表者もない」。石油を輸出して金がうなっている政府は、国家予算のために国民に課税する必要がなく-ただ油田を掘って、原油を外国に売ればいいだけだ-国民の声に耳を傾けたり、国民の希望をだ表する必要もない(P156)。

言い換えるなら、原油価格の高騰により、通貨が実力以上に高く評価され、莫大な額の輸入を煽り、国内の製造業が滅びる-すなわちオランダ病にかかる-と同時に、女性の社会的地位が低いままになる。国民がオイルマネーで安い輸入品ばかりを買うようになると、輸出産業全般が消えてしまうが、とりわけ、繊維・衣料など、教育程度の低い貧しい女性が、経済の梯子にはじめて足をかけるような初歩的労働が消滅してしまう、とロスは指摘する。石油によるにわか景気では土木建設の仕事ばかりが増え、男性が雇用されて、いっそう力を強める。ロスの研究は、国の原油輸入収入が増えると、他の要素が同レベルの場合でも、労働力に占める女性の割合が減り、政治的地位を得る女性の数も減ることを示している。「この結果は、石油生産が家庭外で働く女性の数を減らすことによって、女性の政治的影響力を弱めるという理論を裏づけている」と、ロスは述べている(P158)。

(前略)、接続のためのツールがいかに安くなろうと、ピラミッドの底辺の人々は、世界がフラットであるとともにグリーンでなければ、ほんとうの意味では接続されないということが、その後わかりはじめた。クリーンで信頼できる安い電気がふんだんにあるときにはじめて、彼らは普遍的な接続が得られる。なぜフラットにくわえてグリーンなのか?発展途上国が電話通信だけではなくエネルギーの面でも他国を追い抜くには、それが必要不可欠だからだ。多くの発展途上国では電話がない状態から、電柱に固定電話という段階を踏まず、いきなり携帯電話へと発展した。だから、電気についても、いまそれが使えない一六億人の大部分が、石炭を燃やす火力発電所中心のシステムを経ずに、太陽光発電や風力発電のようなクリーンな電気の分配へと発展することを期待したい(P246)。

不幸なことに、これまでは汚い燃料システムの問題を、小さく切り分けて一度に一つずつ解決しようとしてきた。新システムに置き換えようとはしなかった。だから、一つの問題を解決しようとすると、他の問題を悪化させるはめになった(P274)。

私たちが国家として、また文明として、現在抱えているやりがいのある課題は、まさにそれができる-普通の人間が驚異的なことをやれるーようなクリーンエネルギー・システムを開発することだ。クリーンな電気を発電し、エネルギーと資源の全体的な効率を着実に高め、自然保護を奨励する。それが私たちの取り組むべき最大の課題であるのは、エネルギーの需要と供給、石油独裁主義、気候変動、生物多様性の喪失、エネルギー貧困を悪化させず、そういったことを緩和しながら、世界経済を成長させられるのは、そういうシステムしかないからだ。
そのシステムがなければ、解決策もない。政治家が、”再生可能エネルギー”と唱えるのを聞いたら、背を向けたほうがいい。政治家が”再生可能エネルギー・システム”と唱えるのを聞いたなら、話を聞いてもいい(P280)。

自分たちの暮らしぶりを縮小するのではなく、自分たちの暮らしぶりについて考えることで、計り知れない量の石油や電気が節約できる。グリーンはつらくはなく楽しく、より貧しいものではなく豊かなものを提供してくれることを、人々がわかってくれたなら、そのときには計り知れない量の石油や電気が節約できる。先に述べたように、私たちと地球を救うには、ライフスタイルを急激に変えなければならないかもしれない(P293)。

「環境問題に関しては、無関心よりも偽善的なほうがずっといい」(P323)。