童門式「超」時間活用法
中央公論社
童門冬二
読後の感想
書いてある内容は余り一般的なものとは言えず、特に目新しいものはありませんでした。
ただ、その理由付けとなる部分に、様々な歴史上の人物が登場しており、著者の教養の深さをうかがわせます。
また、それと同時に説得力を増している部分も多くあり、内容よりも書き方のほうが勉強になる本でした。
印象的なくだり
丹羽文雄先生が「小説作法」という本の中で、「清書はしない。清書をするということは、同じことを二度書くことになるからだ」というような意味のことを書いておられたのが、ひどく身に染みた。
つまり丹羽先生のいわれることを「清書をするような気持ちで下書きを書いていると、それだけ甘えが出て、書くことに厳しさがなくなる」というふうに受け止めた(P065)。
(前略)「ゆうべは三時間しか寝ていなかったので、仕事がどうも捗らない」という。
こういうボヤキに対して、わたしは次のような憎まれ口を叩く。
「ゆうべは三時間しか眠れなかったとしても、もうそんなことはお忘れなさい」
「どういうことですか?」
「つまり、時間などというものはもともと人間が考え出してもので、本来は無限な存在です。それを、ヘミングウェイではないけれど、朝、日が昇り、そしてまた夕暮れに日が沈むので、朝と夜とを分け、二十四時間にしているだけでしょう。それをどう使うかは、それぞれの勝手だと思います。
だから、六時間以上寝なければならない、という時間に対する義務感が、いつの間にか人間を支配するようになって、あなたはそれに縛られすぎているのです。たとえばゆうべは三時間しか寝てなくても、ゆうべの眠りはゆうべで決着がついたんだ、という決済の気持ちを持ってください。そして、強いていえばゆうべの眠りの不足は、今日取り返せばいい、という考え方を持てばいいのではないですか。つまり、ゆうべの眠りはそれでおしまい、今日は今日、明日は明日の風が吹くというような考え方に立つのです。いってみれば、時間に対する義務感、あるいは睡眠時間に対する拘束感、こういうものを持っていると、逆にそれが日中の行動に悪影響を与えます。
つまりあなたがいうように、ゆうべ三時間しか寝ていないから頭が思い、六時間寝ないと、どうしても仕事が捗らないというのは、既成概念であってだれもがそうだとは限らないでしょう。そこから脱却しましょう。そして、昨日の眠りは昨日の分で全部済んでいるのだ、と思えば別に何てことはないでしょう」(P072-073)
二宮金次郎がかつて、「この世には、天の理と人間の理がある」といった、そして、「人間の理は、時に天の理に反することがある」と素晴らしいことを言い残してくれた。
二宮金次郎が例にあげたのが有名な、「水車の論理」である。
水車の論理というのは、
○水車は、はじめは川の流れにしたがって回転している。つまり、川というのは高い方から低い方へ流れる。これが力を生む。この力の作用によって、川の中に体を突っ込んだ水車は回転している。つまり、高い所から低い所へ川が流れるというのは、天の理だからだ。
○しかも、もし水車が天の理だけにしたがって、水が高い所から低い所に流れる、という原理原則に基づいて行動していたとすれば、水車は下流に流されてしまう。
ところが水車は流されない。回転を続けている。これはなぜだろうか。
○水車が流されずに回転を続けるのは、天の理のほかに、人間の理が働くからだ。
○人間の理とは何か。水車は途中で身を空中に持ち上げる。そして、川の中で得た自分を押す力をそのまま応用して、自ら自分を回転させる。
つまり、水車は半分は天の理にしたがって川の中に身を浸し、途中から人間の理にしたがって、自分の身を空中に浮き出させる。
○水車の回転は、この天の理と人間の理の合同によって行われている。しかし、人間の理は、明らかに天の理に反している。なぜなら、本来なら下流に流れ去らなければいけない自分の身を、自分の意思によって空中に浮き出させるからだ。
(中略)
金次郎の「天の理に反する人間の理」には、次のような話もある。「稲と雑草」の話しだ。
○天の理に従えば、この世の生物は全て生命を与えられている。それを”生きとし生けるもの”という。
○稲は、田植えによってその生育を開始する。
○育った稲の間に、やがて雑草が生える。雑草が生えるのは、天の理に基づいている。
○したがって、天の理だけを尊重すれば、人間は稲はもちろんのこと雑草も引き抜いてはならない。つまり、天が与えた生命を人間の意志によって左右してはならないからだ。
○しかし、農民は雑草を引き抜く。それは、稲が得るべき地の栄養を雑草が奪い取るからだ。雑草を引き抜くということは、雑草が得ていた地の栄養を奪い、同時に雑草の生命を断つということである。これは明らかに天の理に反する。
○しかし人間は雑草を抜き続ける。稲の生育にとって邪魔だからである。これは明らかに人間の理であって天の理ではない。
○こうして人間の理が天の理をこえる時、稲はスクスクと育ち、やがて秋になれば米となって人の食料となる。
○しかし、もし天の理だけに従って雑草をそのままにしておいたならば、稲は十分には育たない。地からの栄養を雑草に奪い取られて、貧者な生育しか遂げないだろう。
この考え方もわたしを勇気づけた。
つまり、「人間生活には天の理を越える人の理がある」ということを金次郎は教えてくれたのだ(P087-089)。
これは江戸時代中期の名君といわれた肥後熊本藩の藩主細川重賢がいった言葉だ。
彼は当時火の車だった熊本藩の財政を再建したことで有名だが、その時に「財政難の時こそ研修が大切である」といって、今の管理者が犯しがちな、「財政難の時は、会議・広告・研修の3Kを縮小すべきだ」という考え方とは全く逆な立場を取った。
重賢にいわせれば「赤字財政のわが藩にとっては人間だけが唯一の可能性のある資産である」と考えた。
だから、「その資産である人間から潜んでいる可能性を引き出すことが大切だ」と告げ、その可能性を引き出すのは研修だと断じたのである(P129-130)。
知識になるくだり
細井平洲というのは、江戸時代の中期に、出羽国(山形県)米沢藩の藩主として養子にはいり、上杉家の傾いた財政を再建した名君上杉鷹山の学師だ(P031)。
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