『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』

『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』
ジャック・アタリ
作品社

読後の感想
初代欧州復興開発銀行総裁のジャック・アタリが書いたこれからどうなるか?の本。
本のポイントは、ノマドと呼ばれる遊牧民(非定住民)の存在と唯一の希少な財である時間。
地理的に定住するのは、子供と老人となり、若者は移動し続けその中で生活していき、織へのアイデンティティは、国家・地域・企業とも崩壊すると書いています。
また、生の時間(ライブ)の価値が高まり、蓄積された時間(データ、録画、本)の価値は下がっていくだろうと予測しています。
後者については、流通コストも相まって最近は特に顕著ですね。
世界に目を向けると、アメリカの破綻→自らを監視して孤立化させる超帝国の出現→紛争が頻発する超紛争の時代→とかなり悲観的な予測をしつつも、最後にはこれじゃいかんと立ち上がる超民主主義という流れ。
かなり思い切った過激なことも沢山書いてありますが、予測本ってこうじゃなくっちゃね、とも思ったり思わなかったり。
好き嫌いが分かれる本かと思いますが、視野は確実に広がりますので食わず嫌いはやめて読みましょう。
余談ですが、ちょうど子供が生まれたばかりだったので、子供が成長した後の時代はどうなるのだろうと考えざるをえませんでした。

印象的なくだり
これは歴史の大きな転換点であり、この傾向はその後も脈々と続き、現代の我々にも大きな痕跡を残している。つまり、アジアでは、自らの欲望から自由になることを望む一方で、西洋では、欲望を実現するための自由を手に入れることを望んだのである。言い換えれば、世界を幻想と捉えることを選択するか、世界を行動と幸福を実現する唯一の場であると捉えるかの選択である。すなわち、魂の輪廻転生か、それとも魂の救済かという選択である(P.049)。

ここで普遍的な歴史の教訓。巨大勢力がライバルに攻撃されると、勝利するのは、しばしば第三者である(P.050)。

ここで未来への教訓。宗教の教義は、たとえどれほど影響力があったとしても、個人の自由の歩みを遅らせることには成功しなかった。実際に、宗教であろうが宗教から独立した権力であろうが、現在までにいかなる権力も、この歩みを持続的に押し止めることはできなかった(P.053)。

親世代から相続した別荘が、都会人の唯一の定住地になる。観光により、静寂と孤独を探求するようになる。宗教的な場所であろうとなかろうと、瞑想にふける、孤独観を味わう、なにもしないで過ごせるといったサービスを提供する観光地が増える。定住民となるのは子どもの特権であり、子どもたちは、しばしば安定した保護された場所で、祖父母たちと暮らすことになる。そこに父親と母親が交代で現われ、子どもたちと片時の時間を過ごす。なお、父親と母親の大半は離婚している。
交通に費やす時間は急増していく。交通機関は、生活の場、出会いの場と化し、人々は移動中に働き、ショッピングや娯楽に興じることになる。通勤時間は労働時間と認定されると同時に、深夜労働や休日出勤は一般化する。移動は、大学生や社会人になる者にとって、重要な職業訓練の一つとなる。すなわち、「就労可能性」をもち続けるためには、旅行者としての資質を兼ね備えていることを、たえずアピールする必要がある(P.154)。

将来有望な産業を二つ挙げると、保険業と娯楽産業である。この二つの産業は、すでに世界経済を支配しており、今後、さらに躍進する(P.155)。

時間ー残された唯一、本当に希少なもの
商品の製造にかかる時間はさらに短縮される。また、労働・料理・掃除・食事にかける時間も短縮される。反対に、製品を市場に出回すには、さらに時間がかかるようになる。まず、都市のサイズが拡大することで、輸送にかかる時間が増える。また、人々は消費し続けることができる、そして働き続けることができるといったように、時間の奴隷と化す。一方、人々は、移動中の交通手段のなかで、コミュニケーション・情報整理・映画鑑賞・遊び・観劇などに時間を費やすようになる。同様に、働きながらの音楽鑑賞・読書・観劇なども大いに可能となるであろう。音楽は、悲しみ・死別・孤独・絶望に対し、これまで以上に大きな慰めとなる(P.176)。

言い換えれば、これは特に富裕層に有利に働く減税と引き換えに、公共サービスが有料化し、貧困層には不利益が生じるということである。競合する民間企業は、顧客を確保するために、かなりの出費を強いられる。ところが、値段が据え置かれる公共サービスとは異なり、コスト高はサービスの最終価格の上昇につながる(P.203)。

こうしたモノ以外に、人々は、人間の最後の通過点となる死を迎えるにあたってのサービスや、これに付随する小道具を自由に使いたいと要求し始める。時間の価値を引き上げることは、市場においては永遠に到達する手段にマネーを投じることを意味する。つまり、かつて協会が「免罪符」を販売したように、市場は、薬物の使用や低温状態による自殺サービスを販売し、さらには臨終および疑似自殺や昏睡状態を体験できる機械や、無事帰還する保証のないきわめて危険な冒険ツアーなどを企画準備し、これらを商品化する(P.207)。

もともと地球規模の性格をもつ市場が、もともとローカルな性格をもつ民主主義の法則に目を向ける。クリエーター階級がメンバーである富裕層(株式、動産、ノマドな知識を持ち合わせている二0億人のうち、一億人の金持ち)は、いかなる国(多極化した秩序が支配する自分の出生国を含め)に滞在する場合も、滞在先の市民としての忠誠心や連帯観をもつ気は毛頭なく、滞在を個人の契約として考える。そこで、彼らは、費用対効果が得られないと判断すると、さっさと移住する(P.209)。

もはや国は、一時的に滞在するキャラバン隊を相手に、誘致合戦を繰り広げるオアシスでしかない。国の暮らし向きは、ノマドである彼らがもってくる希少資源により制限される。ノマドたちは、そこで生産や商売、くつろいだりするために、しばらくの間、滞在することに同意したにすぎない。もはや国に継続的にすむ人物とは、外に敵が多すぎる人物、年寄りと幼い者など、なんらかの理由で定住を余儀なくされた者たちだけである。そして定住者の一部には、ましな生活環境を求めて、他の土地から定住しにやって来た弱者も混じっている。
ところで国に関しては、市民の独創性、社会統合、社会的流動性を優遇しながら、彼らの忠誠心を引き出す術を心得ている国家だけが発展していく。社会民主主義の伝統をもつ国や、ごく小さな国家として実体をもった国は、他の国々より持ちこたえるであろう(P.211)。

孤独は幼少時代から始まる。自分の子どもたちを十分な時間をかけて養育するように親を仕向ける者もいなくなる。これは血のつながった親子関係でも、養子縁組の場合でも同じである。早熟な子どもたちは、これまでのいかなる社会ネットワークによっても癒されることのない孤独感にさいなまれる。同様に、ますます多くの高齢者がさらに長生きすることで、これまでよりもさらに長く一人暮らしをするようになる。終いには、こうした独居老人には知り合いが一人もいなくなってしまう。こうして世界は、孤独な人々がなんのつながりもなく社会に点在するだけの状態になる。愛とは自己愛のみとなり、同様の運命を辿る(P.215)。

市場は、蓄積された時間よりも生きた時間、工業製品よりもサービスに対する評価を高める。つまり、蓄積された時間の見世物は無料となり、ライブショーが有料となる。例えば、映画は無料となり、映画ファンは劇場の舞台で同じ俳優が演じるシーンに対してマネーを払う。同様に、音楽ファイルは無料となり、音楽ファンはコンサートを観に行くためにマネーを払う。本や雑誌も無料になり、読者は著者の講演会や討論会に出席するために編集者にマネーを払う。こうして次第に生活必需品すべてが無料になる(P.299)。

『朝の知的生活術』

朝の知的生活術
講談社
現代情報工学研究会

読後の感想
 多くの事例を紹介しているのですが、伝聞が多く、あまり説得的ではありませんでした。
 早起きの効用という結果ではなく、方法・手段についての記述があればもっとよかったのになぁと思いました。
 文章は分かりやすく読みやすいです。
何で早起きがいいのか?と思っている人には有用だと思いました。
 研究会名義になっていますが実際の執筆は、松本薫さんお一人でされているみたいです(取材は他の人も加わっているようですが)。

印象的なくだり
豪華な朝食は、家族のきずなを深める要は、お互いが一緒にいて楽しい時間をつくればいいんです。
その点、朝食をおいしくすることは、かなりの効果があるはずです(P149)。

どんなに無理をしたところで、自分に与えられた時間が増えるわけではない。
減るわけでもない。
だとしたら、その与えられた時間内での自分の人生の過ごし方を、客観的に見直してみることがスタートだ(P222)。

過去に読んだ類似の本と感想
『早起きは自分を賢くする』船井幸雄 感想はこちら
『「朝がつらい」がなくなる本』梶村尚史 感想はこちら
『朝からシャキッと仕事ができる!2倍熟睡法』井上昌次郎 感想はこちら

童門式「超」時間活用法

童門式「超」時間活用法
中央公論社
童門冬二

読後の感想
 書いてある内容は余り一般的なものとは言えず、特に目新しいものはありませんでした。
 ただ、その理由付けとなる部分に、様々な歴史上の人物が登場しており、著者の教養の深さをうかがわせます。
 また、それと同時に説得力を増している部分も多くあり、内容よりも書き方のほうが勉強になる本でした。

印象的なくだり

丹羽文雄先生が「小説作法」という本の中で、「清書はしない。清書をするということは、同じことを二度書くことになるからだ」というような意味のことを書いておられたのが、ひどく身に染みた。
つまり丹羽先生のいわれることを「清書をするような気持ちで下書きを書いていると、それだけ甘えが出て、書くことに厳しさがなくなる」というふうに受け止めた(P065)。

(前略)「ゆうべは三時間しか寝ていなかったので、仕事がどうも捗らない」という。
こういうボヤキに対して、わたしは次のような憎まれ口を叩く。
「ゆうべは三時間しか眠れなかったとしても、もうそんなことはお忘れなさい」
「どういうことですか?」
「つまり、時間などというものはもともと人間が考え出してもので、本来は無限な存在です。それを、ヘミングウェイではないけれど、朝、日が昇り、そしてまた夕暮れに日が沈むので、朝と夜とを分け、二十四時間にしているだけでしょう。それをどう使うかは、それぞれの勝手だと思います。
だから、六時間以上寝なければならない、という時間に対する義務感が、いつの間にか人間を支配するようになって、あなたはそれに縛られすぎているのです。たとえばゆうべは三時間しか寝てなくても、ゆうべの眠りはゆうべで決着がついたんだ、という決済の気持ちを持ってください。そして、強いていえばゆうべの眠りの不足は、今日取り返せばいい、という考え方を持てばいいのではないですか。つまり、ゆうべの眠りはそれでおしまい、今日は今日、明日は明日の風が吹くというような考え方に立つのです。いってみれば、時間に対する義務感、あるいは睡眠時間に対する拘束感、こういうものを持っていると、逆にそれが日中の行動に悪影響を与えます。
つまりあなたがいうように、ゆうべ三時間しか寝ていないから頭が思い、六時間寝ないと、どうしても仕事が捗らないというのは、既成概念であってだれもがそうだとは限らないでしょう。そこから脱却しましょう。そして、昨日の眠りは昨日の分で全部済んでいるのだ、と思えば別に何てことはないでしょう」(P072-073)

二宮金次郎がかつて、「この世には、天の理と人間の理がある」といった、そして、「人間の理は、時に天の理に反することがある」と素晴らしいことを言い残してくれた。
二宮金次郎が例にあげたのが有名な、「水車の論理」である。
水車の論理というのは、
○水車は、はじめは川の流れにしたがって回転している。つまり、川というのは高い方から低い方へ流れる。これが力を生む。この力の作用によって、川の中に体を突っ込んだ水車は回転している。つまり、高い所から低い所へ川が流れるというのは、天の理だからだ。
○しかも、もし水車が天の理だけにしたがって、水が高い所から低い所に流れる、という原理原則に基づいて行動していたとすれば、水車は下流に流されてしまう。
ところが水車は流されない。回転を続けている。これはなぜだろうか。
○水車が流されずに回転を続けるのは、天の理のほかに、人間の理が働くからだ。
○人間の理とは何か。水車は途中で身を空中に持ち上げる。そして、川の中で得た自分を押す力をそのまま応用して、自ら自分を回転させる。
つまり、水車は半分は天の理にしたがって川の中に身を浸し、途中から人間の理にしたがって、自分の身を空中に浮き出させる。
○水車の回転は、この天の理と人間の理の合同によって行われている。しかし、人間の理は、明らかに天の理に反している。なぜなら、本来なら下流に流れ去らなければいけない自分の身を、自分の意思によって空中に浮き出させるからだ。
(中略)
金次郎の「天の理に反する人間の理」には、次のような話もある。「稲と雑草」の話しだ。
○天の理に従えば、この世の生物は全て生命を与えられている。それを”生きとし生けるもの”という。
○稲は、田植えによってその生育を開始する。
○育った稲の間に、やがて雑草が生える。雑草が生えるのは、天の理に基づいている。
○したがって、天の理だけを尊重すれば、人間は稲はもちろんのこと雑草も引き抜いてはならない。つまり、天が与えた生命を人間の意志によって左右してはならないからだ。
○しかし、農民は雑草を引き抜く。それは、稲が得るべき地の栄養を雑草が奪い取るからだ。雑草を引き抜くということは、雑草が得ていた地の栄養を奪い、同時に雑草の生命を断つということである。これは明らかに天の理に反する。
○しかし人間は雑草を抜き続ける。稲の生育にとって邪魔だからである。これは明らかに人間の理であって天の理ではない。
○こうして人間の理が天の理をこえる時、稲はスクスクと育ち、やがて秋になれば米となって人の食料となる。
○しかし、もし天の理だけに従って雑草をそのままにしておいたならば、稲は十分には育たない。地からの栄養を雑草に奪い取られて、貧者な生育しか遂げないだろう。
この考え方もわたしを勇気づけた。
つまり、「人間生活には天の理を越える人の理がある」ということを金次郎は教えてくれたのだ(P087-089)。

これは江戸時代中期の名君といわれた肥後熊本藩の藩主細川重賢がいった言葉だ。
彼は当時火の車だった熊本藩の財政を再建したことで有名だが、その時に「財政難の時こそ研修が大切である」といって、今の管理者が犯しがちな、「財政難の時は、会議・広告・研修の3Kを縮小すべきだ」という考え方とは全く逆な立場を取った。
重賢にいわせれば「赤字財政のわが藩にとっては人間だけが唯一の可能性のある資産である」と考えた。
だから、「その資産である人間から潜んでいる可能性を引き出すことが大切だ」と告げ、その可能性を引き出すのは研修だと断じたのである(P129-130)。

知識になるくだり
細井平洲というのは、江戸時代の中期に、出羽国(山形県)米沢藩の藩主として養子にはいり、上杉家の傾いた財政を再建した名君上杉鷹山の学師だ(P031)。

過去に読んだ類似の本と感想
『時間と上手につきあう法―生き急ぎから真のゆとりへ』小林薫 感想はこちら
『時間をもっと上手に使う201の知恵』アラン・アクセルロッド, ジム・ホルチェ, 宮本 喜一 感想はこちら
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『入社3年目までに勝負がつく77の法則』中谷彰宏 感想はこちら
『図解整理術』壺阪龍哉 感想はこちら

『時間と上手につきあう法―生き急ぎから真のゆとりへ』

『時間と上手につきあう法―生き急ぎから真のゆとりへ』
小林薫
PHP研究所

読後の感想
自分の興味のある単語「時間」と「法」のキーワードを含む本書。
若干記述は古いものの、広い視点から書かれたことも多く、思ったより参考になりました。
ただ、時間の話からの脱線話が多く、どちらかというと知的生産の方法について書かれたものといえそうです。
この本を読む前にもっと読むべき本を読むことが、時間を効果的に使う方法と言えると思います。

印象的なくだり
(前略)、三つの時間をめぐるアメリカの研究をまず頭に入れておくと同時に漢字の「時」は日と寺の組み合わせだが、この寺(じ)は単なる音符なのでその原意は、「日の移り変わり」だと漢学者は説いていることにも、まず注意しましょう。
さらに日本語の「とき」は元学習院大の大野晋教授によると、どうも「雪が溶けること」から来たのではないかとしています。
そして英語の「TIME」は、古代英語では「TIDE(潮の流れ)」と同語源であるとされています(P029)。

時が過ぎ去ってゆくのではない。われわれが過ぎ去っていくのだ」レオナルド・ダ・ヴィンチ(P048)。

これまで能率(エフィシェンシー)と効率(エフェクティブネス)の二つは、余りうるさく区別されずに唱えられてきました。
しかし最近、ビジネスの場において「能率」は主として量の処理を中心とした身体の使いこなし方を、「効率」は主として知識労働をめぐる頭の使いこなし方を指すものとして分別されることが多くなってきました(P138)。

著者のあげる事実を吟味し、著者の推論に疑いを抱き、著者の断定を警戒し、著者の感情に共感し、反発し、著者の主張に立ち向かい…というふうに読むのが、批判的な読み方です。
事実探索以外の読書は、実はすべてこの批判的読書だといってもよいでしょう。
読書とはマルロオのいうように「著者との対話」であり、「堂々の闘い」であり、「魂の対決」にほかならないのですから(P142)。

リーディング(READING)とは
Readjusting(最適応)する方法である
Expression(表現)を学びとる方法である
Appreciation(鑑賞)である
Drive(やる気・意欲・芯の強さ)が不可欠
Inquiry(探究心)が大切である
Newsness(新しさ)を絶えず求めてこそ
Gain(収穫)が得られる
(P145)

がんばるというのは、エネルギーの量の問題であり、エネルギーの質の問題ではありません(P197)。

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