『お金は歴史で儲けなさい』

『お金は歴史で儲けなさい』

加谷珪一
読後の感想

読んだきっかけは、日経新聞に掲載されていたコラムを読んで興味を覚えたから。
たしか、筆者が一億円貯めたみたいな内容だったはずです(笑

本書の内容としては、「目先の現状に振り回されてはいけない。
いま目の前で起こっていることは、過去に起こったことが形を変えているだけ」という内容だったのですが
確かに何度も起こっていることだとしても、自分にとって初めてだったらどうすりゃいいのさ、と思ったとか思わなかったとか。

株式投資で失敗する理由は様々ですが、その中のひとつに、自分が経験していない事態に遭遇して、どう行動してよいか分からなくなる、というものがあります。
バブル期の長期的な株価上昇局面しか知らない人は、バブル崩壊による株価の破壊的な下落に正常な判断力を失い、損失を拡大させてしまいました。
一方、相場の下落局面しか知らない人は、一度、相場の上昇が始まってしまうと、その勢いはそう簡単には収まらないという現実が理解できません(P.042)。

って書かれてもねぇ。
うむ、心もちが少し軽くなった…ような気がします。

まぁバブル的な見分け方は分かったとして、知りたいのはその後でした。

株価がバブル的な水準まで高騰しているということは、将来の利益を先取りしていると解釈することができます。その仕組みは以下のようになります。
その企業の株価が高いか安いかを判断する材料としてよく用いられる指標にPER(株価収益率)というものがあります。これは、ある企業の株価が、1株あたりの利益の何倍になっているかを示したものです。
例えば、現在、1500円の株価がついている企業の、今年の1株あたりの利益が100円だとすると、PERは1500円を100円で割って、15倍と計算することができます。この例で考えると、現在の株価は将来得ることができる15年分の利益を先取りしていると判断することができます。
この企業をもし投資家が丸ごと買収したと仮定しましょう。買収した投資家が、その企業が生み出す利益の中から投資元本を回収するためには、15年間待たなければなりません(P.147)。

素直に勉強なったのはビットコインのこと。
ネットでは見聞きしていたものの正直なところ
なんなのかよく分かっていませんでしたが、これを読んで分かりました。
本書の目的とは関係ありませんでしたが。

ビットコインは取引を行うたびに、それがホンモノであるのかのを数学的アルゴリズムを使ってネット上で検証します。そのためには、検証作業を行うためのコンピュータが必要となります。
ビットコインは全体を監督する国家や中央銀行が存在しない代わりに、ビットコインに賛同する世界中の人々が、自身のコンピュータを検証作業用に提供することで、全体の信頼性が保たれています。
では、コンピュータの処理能力を提供した人はボランティアなのかというとそうではありません。
検証作業に要した作業量(計算量)に基づいて、彼等にはビットコインで報酬が支払われます。鉱山で手間をかけて採掘した金の代わりに、コンピュータで手間と時間をかけて計算した作業そのものに価値があるとみなし、これを通貨価値の基礎としているのです。この作業は金鉱をイメージし、マイニングと呼ばれています。
ビットコインの総量はあらかじめ決められており、採掘をする以外にその量を増やすことはできません。
経済学的に考えると、これは現代の金本位制であり、そこに、投下労働価値説の考え方をミックスしたものといってよいでしょう(P.175)。

印象的なくだり

ある程度成熟した先進国になれば、経常赤字体質になるのは、ある種必然であり、それに合わせた産業構造を作っていけば、高い経済成長を維持することができます。つまり、経常収支と経済成長は直接関係しないわけです(P.063)。

企業系列は終身雇用といった慣行は日本の伝統だと思っている人が多いのですが、そうではありません。戦争中に国家総動員体制によって政府から強制されたものです。それまでは、下請け企業も買値が安ければ、自由に顧客を選別していましたし、雇用もかなり流動的でした(P.106)。

株式市場は、技術革新によって、将来にわたって得られる利益を先取りしてしまいます。このため画期的なイノベーションを提供するような企業には途方もない株価が付いてしまうわけです。ネット系企業はその代表的な存在といえるでしょう(P.126)。

自動車は当初、現在の価格で数千万円もする超高級品でしたが、驚異的な普及を見せ、大量生産が可能になったことから、価格が劇的に低下しました。それでも、1台100万円以上はするわけですが、単価が100万円以上の商品がバンバン売れる世界など、自動車以外では考えられません。その点では、自動車は20世紀最大の発明品といってよいものです(P.136)。

言われた見れば、確かにそうだ。
業界が形成された最も高いものかもしれない。

IT分野のおける調査会社として有名な米ガートナーグループは、新しい技術が社会において、どのような手順を踏んで受け入れられるかについて、ある経験則を提示しています。
それはハイプカーブと呼ばれるもので、同社によると、新しい技術は、出てきた当初は期待が過剰になり、その時期を過ぎると、今度は一気に幻滅する人が増加し、最終的にはそれから回復して安定的な普及期に入るという軌跡を描くそうです。
これはあくまで経験則であり、科学的な根拠があるものではありません。しかし、成功した起業家など、新しい技術にチャレンジしている人の多くが、同じような状況を経験していることを考えると、ある程度の普遍性はありそうです(P.148)。

S字カーブとは、新しい技術がどのようなタイミングで市場に受け入れられ、シェアを広げていくのかという経験則を体系化したものです。先ほどのハイプカーブは市場の期待値に関するものでしたが、S字カーブは、より具体的な市場での普及率をベースにした考え方です。要するに、市場での普及率が何%なのかという情報を頼りに技術の進捗状況を把握しようというものです(P.152)。

童門式「超」時間活用法

童門式「超」時間活用法
中央公論社
童門冬二

読後の感想
 書いてある内容は余り一般的なものとは言えず、特に目新しいものはありませんでした。
 ただ、その理由付けとなる部分に、様々な歴史上の人物が登場しており、著者の教養の深さをうかがわせます。
 また、それと同時に説得力を増している部分も多くあり、内容よりも書き方のほうが勉強になる本でした。

印象的なくだり

丹羽文雄先生が「小説作法」という本の中で、「清書はしない。清書をするということは、同じことを二度書くことになるからだ」というような意味のことを書いておられたのが、ひどく身に染みた。
つまり丹羽先生のいわれることを「清書をするような気持ちで下書きを書いていると、それだけ甘えが出て、書くことに厳しさがなくなる」というふうに受け止めた(P065)。

(前略)「ゆうべは三時間しか寝ていなかったので、仕事がどうも捗らない」という。
こういうボヤキに対して、わたしは次のような憎まれ口を叩く。
「ゆうべは三時間しか眠れなかったとしても、もうそんなことはお忘れなさい」
「どういうことですか?」
「つまり、時間などというものはもともと人間が考え出してもので、本来は無限な存在です。それを、ヘミングウェイではないけれど、朝、日が昇り、そしてまた夕暮れに日が沈むので、朝と夜とを分け、二十四時間にしているだけでしょう。それをどう使うかは、それぞれの勝手だと思います。
だから、六時間以上寝なければならない、という時間に対する義務感が、いつの間にか人間を支配するようになって、あなたはそれに縛られすぎているのです。たとえばゆうべは三時間しか寝てなくても、ゆうべの眠りはゆうべで決着がついたんだ、という決済の気持ちを持ってください。そして、強いていえばゆうべの眠りの不足は、今日取り返せばいい、という考え方を持てばいいのではないですか。つまり、ゆうべの眠りはそれでおしまい、今日は今日、明日は明日の風が吹くというような考え方に立つのです。いってみれば、時間に対する義務感、あるいは睡眠時間に対する拘束感、こういうものを持っていると、逆にそれが日中の行動に悪影響を与えます。
つまりあなたがいうように、ゆうべ三時間しか寝ていないから頭が思い、六時間寝ないと、どうしても仕事が捗らないというのは、既成概念であってだれもがそうだとは限らないでしょう。そこから脱却しましょう。そして、昨日の眠りは昨日の分で全部済んでいるのだ、と思えば別に何てことはないでしょう」(P072-073)

二宮金次郎がかつて、「この世には、天の理と人間の理がある」といった、そして、「人間の理は、時に天の理に反することがある」と素晴らしいことを言い残してくれた。
二宮金次郎が例にあげたのが有名な、「水車の論理」である。
水車の論理というのは、
○水車は、はじめは川の流れにしたがって回転している。つまり、川というのは高い方から低い方へ流れる。これが力を生む。この力の作用によって、川の中に体を突っ込んだ水車は回転している。つまり、高い所から低い所へ川が流れるというのは、天の理だからだ。
○しかも、もし水車が天の理だけにしたがって、水が高い所から低い所に流れる、という原理原則に基づいて行動していたとすれば、水車は下流に流されてしまう。
ところが水車は流されない。回転を続けている。これはなぜだろうか。
○水車が流されずに回転を続けるのは、天の理のほかに、人間の理が働くからだ。
○人間の理とは何か。水車は途中で身を空中に持ち上げる。そして、川の中で得た自分を押す力をそのまま応用して、自ら自分を回転させる。
つまり、水車は半分は天の理にしたがって川の中に身を浸し、途中から人間の理にしたがって、自分の身を空中に浮き出させる。
○水車の回転は、この天の理と人間の理の合同によって行われている。しかし、人間の理は、明らかに天の理に反している。なぜなら、本来なら下流に流れ去らなければいけない自分の身を、自分の意思によって空中に浮き出させるからだ。
(中略)
金次郎の「天の理に反する人間の理」には、次のような話もある。「稲と雑草」の話しだ。
○天の理に従えば、この世の生物は全て生命を与えられている。それを”生きとし生けるもの”という。
○稲は、田植えによってその生育を開始する。
○育った稲の間に、やがて雑草が生える。雑草が生えるのは、天の理に基づいている。
○したがって、天の理だけを尊重すれば、人間は稲はもちろんのこと雑草も引き抜いてはならない。つまり、天が与えた生命を人間の意志によって左右してはならないからだ。
○しかし、農民は雑草を引き抜く。それは、稲が得るべき地の栄養を雑草が奪い取るからだ。雑草を引き抜くということは、雑草が得ていた地の栄養を奪い、同時に雑草の生命を断つということである。これは明らかに天の理に反する。
○しかし人間は雑草を抜き続ける。稲の生育にとって邪魔だからである。これは明らかに人間の理であって天の理ではない。
○こうして人間の理が天の理をこえる時、稲はスクスクと育ち、やがて秋になれば米となって人の食料となる。
○しかし、もし天の理だけに従って雑草をそのままにしておいたならば、稲は十分には育たない。地からの栄養を雑草に奪い取られて、貧者な生育しか遂げないだろう。
この考え方もわたしを勇気づけた。
つまり、「人間生活には天の理を越える人の理がある」ということを金次郎は教えてくれたのだ(P087-089)。

これは江戸時代中期の名君といわれた肥後熊本藩の藩主細川重賢がいった言葉だ。
彼は当時火の車だった熊本藩の財政を再建したことで有名だが、その時に「財政難の時こそ研修が大切である」といって、今の管理者が犯しがちな、「財政難の時は、会議・広告・研修の3Kを縮小すべきだ」という考え方とは全く逆な立場を取った。
重賢にいわせれば「赤字財政のわが藩にとっては人間だけが唯一の可能性のある資産である」と考えた。
だから、「その資産である人間から潜んでいる可能性を引き出すことが大切だ」と告げ、その可能性を引き出すのは研修だと断じたのである(P129-130)。

知識になるくだり
細井平洲というのは、江戸時代の中期に、出羽国(山形県)米沢藩の藩主として養子にはいり、上杉家の傾いた財政を再建した名君上杉鷹山の学師だ(P031)。

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