『若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝』

『若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝』
中央公論新社
荷宮和子

読後の感想
感じたことを脊髄反射でレッテルを貼って書かれた印象。どのお話も結局団塊の世代に責任が帰着してしまう。P084とP131が一言一句そのままなのは、見間違いかと思った(笑)。ずいぶん手抜きなんだなぁ。
まとめると、「妙な前例を作ると後の者が迷惑」ということらしい(P216)が、それこそこの人の一番嫌っている右へ倣えの考えじゃないの?自分の反対する考えが根拠になってるのはどうなんでしょ?(笑)はっきり言って読む価値に乏しいです。201ページのくだりは反面教師としての意味合いで覚えておこうと思いました(笑

印象的なくだり
「想像力の欠如」のせいで、「(やる気はあるのだが)どんな努力をすればいいのかが思い浮かばない」→「いざ、実際にやらなければならない事柄を示されると途端に挫折する、やらなければならないことをアドバイスしてくれた人のことを逆恨みする」という、「近ごろの若いもん」の特質がこういったところからうかがえるのである(P051)。

が、最近ようやく私は気付いた。ああそうか、「近ごろの若いもん」は、「何度も同じ感情を味わいたい」からこそ、同じソフトを何度も見るのだ、ということに。
つまり、「近ごろの若いもん」は、「見直す度に新たな発見がある喜び」を味わうためリピートするのではなく、「一度見ただけですべてが了解できてしまう類の「わかりやすい面白さ」」を何度も味わうためにリピートしているのである。アニメであれ、映画であれ、テレビドラマであれ。「あの気持ちよさをもう一度」、というわけだ。
映画やドラマを見る時でさえ、「物事は、見方を変えれば違って見えることがある」という考え方と無縁でいる人たちが、現実の人間や出来事に対応する際に、「見方を変えれば違って見えるかも・・・・・・」という考え方をもてるわけがない(P091)。

「人を見下すのは確かに気持ちがいいけれど、その気持ちよさと同じくらい、自分のことがイヤになっちゃったりもするよ」、と。
「見下す快感」と「自己嫌悪による不快感」。
両者を天秤にかけた場合、後者のほうが大きいために、コスト・パフォーマンス的には決しておいしくない結果となる、ゆえに、「人を見下すのはやめよう」、これこそ、日本人にとっての「戦後民主主義」だったはずである。
そう「善悪」の区別と言うよりも、むしろ、「損得」の問題として、「差別」をなくそうとする。
これこそが、日本人のやり方だったはずなのだ(P201)。