オススメの漫画『レッド』のお話

『レッド』という漫画があります。
作者は、山本直樹。
マイナー雑誌「イブニング」にて隔号連載中。

内容は、1969年から1972年の日本を舞台に革命を起こすための若者の活動というもの。

ピンとくる人は分かると思いますが、連合赤軍の印旛沼事件・山岳ベース事件・あさま山荘事件
をモチーフにしています。

wikipediaより

1970年代初頭、日本の新左翼運動のなかで起こった有名な事件をテーマとした作品である。何人かの主要人物を軸に、時間的経過に沿って事件の進行や当時の時代背景を淡々と叙述していく手法がとられている。また、登場人物のその後の運命を示す文章が頻繁に登場したり、人物が亡くなっていく順に1から15までの番号が付されるなど、あらかじめ物語の先には悲劇的結末が待ち受けることが強調されている。

はっきり言って重いです。
しかし、組織というものがどのように崩壊していくかが如実に分かる漫画でした。
この漫画を読みながら、『働きざかりの心理学』河合隼雄著を思い出しました。

場の構造を権力構造としてとらえた人は、それに反逆するために、その集団を抜け出して新しい集団、彼らの主観に従えば反権力の集団をつくる。
ところが既述のような認識にたっていないため、彼らの集団も日本的な場をつくることになる。
そして、既存の集団に対抗する必要上、その集団の凝集性を高めねばならなくなるので、その「場」のしめつけは既存の集団より協力にならざるを得ないという状態になってくる。
このため、「革新」を目ざす集団が、その主義はともかくとして、集団構造をは極めて保守的な日本的構造をもたざるを得ないというパラドックスが生じてくるのである(P136)。

反権力を標榜する集団が、権力に対抗するためにまとまろうとする。
ところが、本来個人は個として独立しているため、不自然なまとまりは却って不協和音を生む。
気付いていないようで、実際には周囲にはいくらでもあるような気がしました。
そして、漫画のように大抵の場合は悲劇が待っています。

新品だと一冊千円と、漫画にしては少々お高いですが、オススメです。
萌えとか出てきませんので、ソッチの人は注意。

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
扶桑社
リリー・フランキー

読後の感想
泣かそうとしているのであれば、ずるい。無意識ならすごい。
母の無償の愛と、葛藤。筆者は東京に負けない結果で良かったと思うが、しかし、その影には無数の挫折をした人も多くいるのだろうなぁと。切なくなりました。

印象的なくだり
前世紀末に人々が信じ恐れた予言は当たることもなく、ただ単純に、次々と日めくりがめくれるだけで、はるか未来であったはずの二十一世紀はやって来た。
その昔、人々が想像した二十一世紀の姿。それは大幅にはずれることもなく、今、我々の身近なものになりつつある。
コンピューター。テレビ電話。宇宙旅行。ロボット。
映画で観たそれぞれは、現実になった。しかし、ひとつだけ、昔の人が想像のできなかったこと。気付かなかったこと。
それは、すべてのものは進化の過程で小さくなってゆくということだった。
兵器並みの能力を持つコンピューターを描く時、フィルムの中、漫画の中ではいつもそれは家具のように大きくかたどられていたものだ。しかし、今はその程度のコンピューターでも、子供机の上に、コンパクトに並べられている。
それは実寸の問題ではなく、人々の心の中では偉大なるものはすべて大きく映っていたからなのだろう。
母親に手を引かれている子供が、その母親の身長など気にしたことがないように。
「たわむれに母を背負いてそのあまり軽さに泣きて三歩歩まず」
石川啄木が目を潤ませて立ち止まったように、誰しもがかつて大きかったはずの母親の存在を、小さく感じてしまう瞬間がくる。
大きくて、柔らかくて、あたたかだったものが、ちっちゃく、かさついて、ひんやり映る時がくる。
それは、母親が老いたからでも、子供が成長したからでもない。きっとそれは、子供のために愛情を吐き出し続けて、風船のようにしぼんでしまった女の人の姿なのだ。
五月にある人は言った。
どれだけ親孝行をしてあげたとしても、いずれ、きっと後悔するでしょう。あぁ、あれも、これも、してあげればよかったと(P321)。