『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』

『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則』
日経BP出版センター
ジェームズ・C. コリンズ, 山岡 洋一

読後の感想
膨大なデータからある一定の法則を読みとり理論化するといった論文の原則をきちんと踏んでいるせいか、非常に説得力にある流れになっており、研究者っぽいなぁと思いつつ読みました。
規律に厳格なのは日本で、アメリカは緩いと考えがちでしたが、実際の運用は逆なのかなぁと思いました。
つまり、日本の場合は内的に緩く、外的に厳しいので、上層部ほど厳しい基準を適用するのは若干抵抗があったりします。ところが逆にアメリカの場合は、上層部ほど厳しい基準を自らに課すことが可能なのです。ヨーロッパだとある意味ノブレス・オブリージュなのかも。

印象的なくだり
飛躍した企業は、偉大になるために「なすべきこと」に関心を集中させたわけではなかった。それと変わらぬほど、「してはならないこと」と「止めるべきこと」を重視している(P015)。

第五水準の指導者は成功を収めたときは窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出す(具体的な人物や出来事が見つからない場合には、幸運をもちだす)。結果が悪かったときは鏡を見て、自分に責任があると考える(運が悪かったからだとは考えない)(P056)。

飛躍を導いた指導者は、三つの単純な真実を理解している。第一に、「何をすべきか」ではなく「だれを選ぶか」からはじめれば、環境の変化に適応しやすくなる。人びとがバスに乗ったのは目的地が気に入ったからであれば、十キロほど走ったところで行く先を変えなければならなくなったとき、どうなるだろうか。当然、問題が起こる。だが、人びとがバスに乗ったのは同乗者が気に入ったからであれば、行く先を変えるのははるかに簡単だ。「このバスに乗ったのは、素晴らしい人たちが乗っているからだ。行く先を変える方がうまくいくんだったら、そうしよう」。第二に、適切な人たちがバスに乗っているのであれば、動機付けの問題や管理の問題はほぼなくなる。適切な人材なら厳しく管理する必要はないし、やる気を引き出す必要もない。最高の実績を生み出そうとし、偉大なものを築き上げる動きにくわわろうとする意欲を各人がもっている。第三に、不適切な人たちばかりであれば、正しい方向が分かり、正しい方針が分かっても、偉大な企業にはなれない。偉大な人材が揃っていなければ、偉大なビジョンがあっても意味はない(P066)。
偉大な企業はおそらく、職場としてみた場合に厳しいところだと思えるだろう。たしかに厳しい。会社が求める資質がなければ、たぶん長くははたらけない。しかし、これら企業の文化は冷酷ではない。厳格なのだ。この違いは極めて重要である。
冷酷とは、事業環境が悪くなると人員を大幅に削減したり、普段でも、真剣に検討することなく気まぐれに解雇したりすることを意味する。厳格とは厳しい基準をつねに、組織内のすべての階層に適用し、とくに上層部に厳しく適用することを意味する。厳格であって冷酷ではないのであれば、優秀な従業員は自分の地位を心配することなく、仕事に全神経を集中させることができる(P083)。

延々と待ったすえに行動を起こすのでは、バスから降りる必要がある人たちに対しても不当な行動をとることになる。いずれ降りてもらうしかないと分かっているとき、その相手に席を与えつづけていては、相手の一生のうちそれだけの時間を盗むことになる。相手はその時間を、力を発揮できる場所を探すのに使えたはずなのだ。そして、もっと自分に正直になって考えてみれば、延々と待ちつづけるのは、相手を気づかっているからではなく、その方が自分にとって楽だからであることに気づくはずだ。そこそこ仕事はこなしている訳だし、別の人材を探すとなればかなり苦労する。だから、問題を避けているのだ。あるいは問題に真正面から取り組もうとすると一苦労だし、不快でもある、苦労と不快を避けたいので、ひたすら待ちつづける。待って待って待ちつづける。そのとき、周囲の最高の人たちはみな不思議に思っている。「いつになったら行動するのだろう。いったいいつまで、こんな状態がつづくのだろう」と(P090)。
適正な人たちがバスに乗るようにすれば、全員が偉大なものを築こうという意欲をもっている。したがって、ほんとうの問題はこうなる。「従業員の意欲を挫かないようにするにはどうすればいいのか」である。そして、やる気をなくさせる行動のなかでも、すぐに失望させられる根拠のない期待を主張することほど最悪のものはない(P117)。

ストックデールの逆説
どれほどの困難にぶつかっても、最後にはかならず勝つという確信を失ってはならない。そして同時に
それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視しなければならない(P137)。

バーリンはこの短い寓話に基づいて、人間を狐型と針鼠型という二つの基本型に分類した。狐型の人たちはいくつもの目標を同時に追求し、複雑な世界を複雑なものとして理解する。「力を分散させ、いくつもの動きを起こしており」、全体的な概念や統一のとれたビジョンに考えをまとめていこうとはしない。これに対して針鼠型の人たちは、複雑な世界をひとつの系統だった考え、基本原理、基本概念によって単純化し、これですべてをまとめ、すべての行動を決定している。世界がどれほど複雑であっても、針鼠型の人たちはあらゆる課題や難題を単純な、そう、単純すぎるほど単純な針鼠の概念によってとらえる。針鼠型の人たちにとって、針鼠の概念に関係しない点は注目するに値しない(P145)。

どの組織も針鼠の概念を見つけ出すことができるだろうか。あるとき目が覚め、厳しい現実を誠実に見つめるようになって、「世界一といえる部分はどこにもないし、これまでにもなかった」との結論に達したとすれば、どうすればいいか。この点にこそ、今回の調査でもとくに素晴らしい発見があった。選ばれた十一社の半数以上は、世界一だといえる点はどこにもなかったし、世界一になれる見込みもなかった。だが、どの企業もストックデールの逆説を信じて、こう考えた。
「世界一になれる点がどこかにあるはずだ。それを探し出してみせる。世界一になれない点がある現実も、直視しなければならない。
この点で幻想を抱いてはならない」。そして、そのときの状況がどれほど惨めであっても、針鼠の概念を見つけだすことができている(P184)。

自由は全体の一部でしかなく、真実の半分でしかない。・・・・・・だからこそわたしは、東海岸の自由の女神像に対して、西海岸に責任の女神像を建てるべきだと主張している。ビクトール・E・フランクル「意味の追求」(P191)。

偉大な実績に飛躍した企業は、はっきりとした制約のある一貫したシステムを構築しているが、同時に、このシステムの枠組みの中で、従業員に自由と責任を与えている。みずから規律を守るので管理の必要のない人たちを雇い、人間ではなく、システムを管理している(P200)。

コッテージ・チーズを洗う(P203)。

飛躍を遂げた企業は、恐怖によって動かされてはいない。自分たちが理解できないことへの恐怖によって動かされてはいない。馬鹿にされることへの恐怖によって動かされてはいない。他社が大成功を収めるのを指をくわえてみる羽目になることへの恐怖によって動かされてはいない。競争で打撃を受けることへの恐怖によって動かされてはいない(P258)。
重要な点はこうだ。通常、偉大な企業への転換が外部からどう見えるかをもとに、内部で転換を経験した人たちがどう感じたはずかを考えている。外部から見れば、転換は劇的で、革命的ともいえるほどの飛躍だと思える。しかし内部から見れば、印象がまったく違っていて、生物の成長に似ている(P269)。

傑出した人材が不足しているいま、「最初に人を選ぶ」規律をどうすれば実行できるのか
第一に、組織の最上層部については、適切な人材が見つかるまで雇用しない規律を絶対に守らなければならない。偉大な企業への道を歩むとき、最大の損害を及ぼす誤りは、不適切な人を主要なポストにつけることである(P342)。

「適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろす」規律を実行に移そうとしても、教育・研究機関や政府機関など、不適切な人をバスから降ろすのがきわめてむずかしい組織の場合、どうすればいいのか
おなじ基本的な考え方を適用するが、達成までに時間をかける。たとえばある大学の医学部は一九六○年代から七○年代にかけて、飛躍的に充実した機関となった。教授陣を全員入れ換えたが、それには二十年かかっている。終身教授を解雇するわけにはいかないが、ポストに空きができるごとに適切な人を雇用し、徐々に雰囲気を変えて、不適切な人が居心地の悪さを感じるようになり、引退するか余所に移るようにした(P343)。

故意

例えば故意の中の「目的」も主観的構成要件要素の中核なわけだから、重要なのはわかるんだけど、

金銭目的ではないから、死刑が無期懲役に減軽って妥当なの?

 長崎市のJR長崎駅前で平成19年、選挙運動中だった伊藤一長市長=当時(61)=を射殺したとして、殺人や公選法違反(選挙の自由妨害)などの罪に問われた元暴力団幹部、城尾哲弥被告(62)の控訴審判決公判が29日、福岡高裁で開かれた。松尾昭一裁判長は「犯行が金銭目的ではないことは軽視できない」として求刑通り死刑とした1審長崎地裁判決を破棄、無期懲役を言い渡した。金銭目的などではなく、被害者が1人で、殺人罪の前科がない被告への死刑判決は異例で、弁護側が控訴。高裁の判断は、従来の量刑基準に沿うものとなった。

 松尾裁判長は主文の言い渡しを後回しにし、判決理由の朗読から始めた。判決理由では「1審の事実認定に誤りはない」としたうえで、城尾被告が知人への融資を市に断られたことなどを理由に面識のない市長殺害に及んだことを「暴力団特有の身勝手な要求で理不尽極まりない」と指摘。

 一方で「被害者が1人にとどまることを十分考慮する必要がある」と述べ、強盗のような利欲的側面はなく、主な動機は恨みだったことなどを考慮し「死刑選択は躊躇(ちゆうちよ)せざるを得ない」と結論付けた。

 昨年5月の1審判決は「民主主義を根幹から揺るがす犯行」と厳しく批判し、極刑を選択していた。判決によると、城尾被告は19年4月17日夜、長崎駅前の選挙事務所近くの歩道上で伊藤市長を至近距離から拳銃で2発撃ち、殺害した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090929-00000088-san-soci

至近距離から、拳銃を二発発射ということで、殺害の確定的な故意は認められると思いますが、殺害の意思を基礎付ける「動機」がそれほど重要なのかどうかはよくわからん。

『考える技術』

『考える技術』
講談社
大前 研一

読後の感想
論理力が人を動かす、事実を積み重ねて論証する。相手の求めていることを的確に判断するなど、コンサルの人らしいなぁと思う記述が満載でした。
考える技術は、一朝一夕で身に付くものではなく、常に仮説と確認、反復と継続をしていかないとダメというのは当たり前だけど、重い言葉でした。
なにより行動が具体的です。
ちなみにblogによると、この本を購入したのは2008年4月3日、一年半以上積読になっていたわけですが、ようやく読めました。
というよりも、積読になっていたから読めたわけであり、そもそも購入していなかったら読むこともなかったわけです。というわけで、積読万歳(←結論

印象的なくだり
繰り返すが、問題解決に必要なのは、まず事実を認めた上で「正しいことは何か、なすべきことは何か」と考えることである。たとえ社長が反対の立場であっても、それを説得する勇気をもつ。どんなに相手が嫌がっても、事実に対しては忠実になる。これが問題解決の代原則である(P124)。

同質性のある中で、さらに立場や部門、あるいは派閥によって、より同質性の強い人間だけで固まる癖がある。そこでは居心地のよさ、同質性の維持こそが第一の命題になってしまいがちだ。だから会社が非常に大きな問題に直面したときに、事実を素直に受け止めて、それを自分や自社にとってのチャレンジだと思ってぶつかっていく精神がないし、そうしたトレーニングが日本人および日本企業の中には、ほとんどないと言っていい。たとえば、雪印乳業が北大の農学部を中心にまとまっていたのは薄気味悪いくらいである。卒業年次で会社の順列が決まり、会社存亡の危機に襲われたときには、もろくも崩れてしまった。
対照的なのはアメリカで、もともと異質な人たちがいるうえに、中西部と東部と西部ではカルチャーが全然違う。あらゆる人種や民族が集まっているし、宗教を見ても多種多様だ。たとえば一○人のチームを組むと、集まったメンバー全員が違う背景を持っていることも珍しくない。
彼らは学校時代から異質な者同士の集まりの中にいるから、自然と問題を解決していくトレーニングのチャンスが多い。世界企業を運営していくとき彼らのほうに一日の長があるのは、ある意味で仕方のないことだろう。
だからこそ、日本企業の中でもトヨタのように世界のトップで戦っている会社は、常にトップが新たなチャレンジを掲げ、社員たちは皆「自分たちが一つでもサボったら、明日にも潰れるかもしれない」という危機感を共有している。日本一の収益を誇る会社が、ほかの会社よりもむしろ危機感を持ってやっているのである(P127)。

「考える」とは、つねに質問をし、自分で答えを一生懸命に見つけると
いうことだ(P204)。

『考える技術』大前研一