YOKOHAMAじゃ今 乱れた恋が揺れる

タイトルは、中村雅俊の楽曲『恋人も濡れる街角』(作詞桑田佳祐)の歌詞より抜粋(タイトルと本文は「全く」関係ありませんっ)。

土日は通勤電車が空いていて快適(負け惜しみではない

というわけで、お仕事を堪能してまいりました。

今日で横浜へ引越しをして一ヶ月です。
だいぶ慣れました。
が、司令は本部(実家)に帰投され、駐屯中でございます。

ただ段ボールが相変わらず転がっています。
毎日半分、1/4と中身を捨てたり出したりしています。
ちなみに昨日はA4用紙を2枚捨てました(笑

今月末から怒涛のn連休(nには任意の素数を代入せよ。但しn>5)。
といっても、どこかに遠出するわけではありませぬ。
産婦人科の周りで絶賛待機中の予定。

そんなじゅうがつ~♪

『今、変わらなければいつ変わるんだ、やれ!』

『今、変わらなければいつ変わるんだ、やれ!』
吉野 敬介
ロングセラーズ

読後の感想
一般に変わるために何が必要なのか端的に言うと、自己認識と行動である。その行動部分について、焦点を絞って書かれています。
なにげに講師業だけあって、熱意はすごいです。ほだされる人がいるのも分かる気がします。
何よりこの本の一番良いところは、理屈じゃないんだという部分が全面的にでていること。まずは行動してみろ、その結果が新しい行動の原動力となることを知っているんだなぁと思います。ただ一点だけ個人的な好みの問題でいうと、元ヤンキーとか暴走族(と一般に呼ばれる暴徒)に所属している人が、今どれだけ偉そうなことを言っても何となく信じられない気がしてしまいます。それは多分、自分の過去の経験からなんだろうなぁと思うので、まぁそれはそれ。
司令が、表紙の写真を見て「老けたなぁ」と述懐していましたとさ。

印象的なくだり
「すみません」というその言葉の代りに「ありがとうございます」と言うようにしてほしい。きっと、お前の言っている「すみません」はほぼ九割くらいの確率で、「ありがとうございます」に言い換えてもさしつかえないはずだ(P044)。

人間ってのは簡単には変わらない。だからこそ自己分析を一回でもいいからキチンとやっておくと、一生、その分析は役に立つということにもなってくる。
変わらない部分を認めたうえで、変えられる部分を探していけば、人は「変わる」ことができるんだ(P066)。

これを読んでくれているキミたちにも今この瞬間、持っている財布に入っているお金をまず見てもらいたい(中略)。
金額を数えたら、そのお金の意味というものを突き詰めて考えてもらいたい。社会人ならどうやってそのお金を稼いだか、何を求められた対価としてそれを手にしているか。そして今日、それを何に使ったのか。まだ働いていない学生なら、親がどんな気持ちでそのお金をキミに渡してくれたのか。そして親がどんな労働をして、キミに渡すためのそのお金を工面してくれたのか
(P084)。

黙々と何かを続けるというのは、そもそも非常に地味な作業だ。いかにすごいことを続けていたとしても、周りにしてみれば毎日の見慣れた光景のひとつに過ぎない。心の中ではすごいと尊敬していても、毎日のように「それ、すごいね!」と声をかけるのも妙な話だ。だからそのすごさに対して、誰も何も言わなくなる(P217)。

そういうものを(注、他人の評価)を期待する以前に、キミがやっていることはそもそも何かゆるぎない大きな目標があって始めたことだろう。単純に他人に評価されるということが目標だったらそれもわからないでもないが、他人の評価なんてものは、その目標達成の付属物のようなものでしかなかったはずだ。
つまりその初心は何だったのか、それを思い出せ。おそらくその初心を常に忘れず持ち続けたなら、それは継続のための大きなモチベーションとなり続けてくれるはずだ(P219)。

若者にあるのは未来じゃない、時間だけだと知れ!(P226)。

周りのヤツらを見ていると、そういう時間が多すぎる。でも俺はそういうことは絶対にない。飲み会に行きたいのにどうしても行けなかったら、俺ならその代りに家で必要以上に頑張る。
でも犠牲にしながら何もしなかったヤツは「飲み会に行かない」ということだけで、すでに満足してしまっている。行きたいけど行かなかったことで「俺は犠牲になっている、この時間を犠牲にしたんだ」という悲劇のヒロインみたいな感傷に浸って、そこで酔っているだけだ。
でもその意識だけでは、せっかく犠牲にした時間からは何も生まれてこない。何よりも最大の要因は、危機感が足りないということだ(P228)。

メガネは顔の一部じゃない

タイトルは、相対性理論の楽曲『さわやか会社員』の歌詞より抜粋(タイトルと本文は関係ありません)。

先週のお話。
通勤の行きと帰りに小学生の団体と遭遇(行きと帰りは別団体)。
あいつら元気すぎ。ペース配分とか全然考えてないよね。
行きの小学生は大爆発。傍らに人無きが如く暴れまくりでした。

帰りの小学生は完全におねむ状態でした。電池切れ。

ところで、サンシャイン60の広場みたいなところで、小学生たちが鬼ごっこ(?)をしているのを見ていたのですが、いまだに「ウルトラーハイパースーパーじゃ~んぷ」とか言ってるのを見るとついつい笑みがこぼれてしまいます。

まだあるんだ、その文化(笑

必殺技は、技の名前を言わないと発動しない文化(ジャンプの影響?)は脈々と受け継がれているようで安心です。

オチなし

目と目が合ったらmiracle

タイトルは、「Miracle Love」牧瀬里穂の歌詞(作詞竹内まりあ)より抜粋(タイトルと本文は関係ありません)。

三日間の有意義な休日。
そりゃあもう、惰眠をむさぼらせていただきましたとさ。

読んだ本、ハードカバー二冊と新書一冊。
食べたラーメン、一風堂。
iPhoneに入れたアプリはセカイカメラ。
見たアニメは攻殻機動隊SAC。
その他カレーうどんにしゃぶしゃぶ、コメダ珈琲でアイスモーニング。

セカイカメラのすごさに驚く。
ランドマークには既にデフォルトでエアタグが付けられているので、それだけでも楽しい。
明日池袋周辺を見てみるときっともっと楽しいだろう、と思う。
一方方向コミュニケーションをここまで面白くさせたのはすごい。
『電脳コイル』の世界がついに現実にっ。

わが子を使った壮大な教育(実験とも)の案。

幼児が生後六ヶ月位に初めて鏡に興味を持ち、やがて強烈な喜悦を得る瞬間を是非映像に残したい。
一般に幼児段階では「原始的不調和」つまり「ままならない状態」で生まれてきます。
ところが、鏡に映った自分の姿を見て、あるとき「おお、コレが私なのか」と認識・認容するときがきます。
つまり、それまで手の感覚とか脚の感覚とかバラバラに認識していたのを、「私」という一個の個だと認識するときがくるらしいのです。
(というかジャック・ラカンの鏡像段階理論は多分そう言っていると理解してます)
というわけで、わが子が自らを認識する瞬間(理屈でいうと一生で一回きりのはず)を是非残したい、というわけです。

善は急げというわけで、早速Youtubeのアカウント取得してみました。
http://www.youtube.com/user/fukudashigetaka

試しにアップしたのは、我が家からの風景。
iPhoneで撮っているので、かなり光量が足りずえらいことになっていますが(笑
最後の15秒くらいで電車が通り過ぎていきます。トレインビューです。

今から少し勉強して寝ます。おやすみなさい。