『ルポ 貧困大国アメリカ』

読後の感想

アメリカではいま中流階層がすごいスピードで貧困層へ転落し、社会は貧困層と富裕層に二極化しているらしい。
それは「自己責任」という名で、選択の余地のない選択を迫られてた結果なのです。
本書では、一章で肥満、二章で行き過ぎた民営化、三章で医療保険、そして四章、五章では搾取される若者労働者という視点から、貧困を描いています。
本書を読み薦めるにしたがって、貧困と無知は本当に仲が良いのだなぁとため息をつきました。
全体を通して、貧困層から富を吸い上げ富裕層に分配する制度設計の不良が見て取れました。
一時期、経済学者のミルトン・フリードマンをもてはやす風潮があったように思いますが、この結果を見るととてもではないが「正しい結果」を生んだとは思えませんでした。

グアムに行く途中の機内で読みました。
本書に出てくる「マカロニ&チーズ」なども現地のマートで見ました。
太った人がそういったインスタント食品を食べているのを見るたびに、本当に複雑な気持ちになりました。

印象的なくだり

国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在、私たちが今まで持っていた、国家単位に世界観を根底からひっくり返さなければ、いつのまにか一方的に呑みこまれていきかねない程の恐ろしい暴走型市場原理システムだ。
そこでは「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく(P009)。

貧困層の受給者たちの多くは栄養に関する知識も持ち合わせておらず、とにかく生きのびるためにカロリーの高いものをフードスタンプを使って買えるだけ買う。貧困層のための無料給食プログラムに最も高い頻度で登場する「マカロニ&チーズ」(一ドル五0セント)を始め、お湯をかけると一分で白米ができる「ミニッツ・ライス」(九九セント)や、味の濃いスナック菓子(一袋九九セント)、二ヶ月たってもカビの生えない食パン(一斤一ドル三0セント)などが受給者たちの買う代表的な食材だ。
これらのインスタント食品には人工甘味料や防腐剤がたっぷりと使われており、栄養価はほとんどない(P026)。

ブッシュ政権誕生時のホワイトハウスでは、災害対策の重要な要素を含む公共事業を、政府全体にわたり早急に民営化する努力が開始されていた。
「FEMAは実質的に民営化されたも同然でした。他の多くの業界同様、アメリカ人が最も弱い「自由競争」という言葉とともにです。私たちは市場に放り出され、競争が始まりました。
主要任務はいかに災害の被害を縮小し多くの人命を救うかということから、いかに災害対策業務をライバル業者よりも安く行うことができるかを証明することに代わったのです」
(中略)
「政府が業務を民間に委託すると、敏速な対応ができなくなります。民間会社の第一目的は効率よく利益をあげることであり、国民の安全維持という目的と必ずしも一致しないからです」(P043)。

学校が民営化されることで国からの教育予算は大幅にコスト削減され、貧困家庭の子どもたちは教育における平等な機会を奪われることになる。
「国家が国民に対し責任を持つべきエリアを民営化させては絶対にいけなかったのです」(P053)。

日本でも昨今問題になっている「貧困と教育格差」が、国が国内の何に対し未来へに投資を行うかという問いと同義語であることを、アメリカの若者たちを追いつめてゆくこの流れが象徴している。
「仕事の意味とは、ただ生活費を稼ぐ手段だけではないのです」とティムは言う。
「若者たちが誇りをもって、社会の役に立っているという充実感を感じながら自己承認を得て堂々と生きられる、それが働くことの意味であり、「教育」とはそのために国が与えられる最高の宝ではないでしょうか?将来に希望をもてる若者を育ててゆくことで、国は初めて豊かになっていくのです。学びたいという純粋な欲求が、戦争に行くことと引きかえにされるのは、間違いなのです」(P141)。

一九九0年代の「外注革命」をモデルにして、アメリカ政府は国の付属機関を次々に民営化していった。アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンは「国の仕事は軍と警察以外すべて市場に任せるべきだ」という考えを提唱したが、フリードマンに学んだラムズフェルド元国防長官はさらに、戦争そのものを民営化できないか?と考えた。この「民営化された戦争」の代表的ケースが「イラク戦争」であり、アメリカ国内にいる貧困層の若者たち以外にも、ここに巧妙なやり方で引きづり込まれていった人々がいる(P146)。

教訓は、いつも後からやってくる。ニ00一年九月一一日以後のアメリカで真っ先に犠牲になったもの、それは「ジャーナリズム」だった。
九・一一テロの瞬間をとなりのビルから目撃していた私の目の前で、中立とは程遠い報道に恐怖をあおられ攻撃的になり、愛国心という言葉に安心を得て、強いリーダーを支持しながら戦争に暴走していったアメリカの人々。
だが、実はすべてを変えたのはテロそのものではなく、「テロとの戦い」というキーワードのもとに一気に推し進められた「新自由主義政策」方だった。何故ならあの言葉がメディアに現れてから、瞬く間に国民の個人情報は政府に握られ、いのちや安全、国民の暮らしに関わる国の中枢機関は民営化され、競争に負け転がり落ちていった者たちを守るはずの社会保障費は削減されていったのだから(P203)。


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『ノードストローム・ウェイ―絶対にノーとは言わない百貨店』

 

『ノードストローム・ウェイ―絶対にノーとは言わない百貨店』
ロバート スペクター
パトリック・D. マッカーシー
山中 カン
犬飼 みずほ

読後の感想
ワタミの会長、渡邊美樹さんの本の中で紹介されていたので興味を持って読み始めました。
若干誇張されているものの「絶対にノーと言わない百貨店」として有名なノードストローム。
サービス業に従事する人なら(どんな意味でも従事しない人なんてほんの少数だけど)
忘れてはいけない顧客重視の精神が至る所に発揮されている印象でした。

但し、誤解を恐れずに言うと、このやり方は今後は厳しいと思います。
ノードストロームのやり方は、いわゆる顧客重視ですがアプローチの仕方が限定されています。
その中でも、「顧客が望んでいるもの(品物とは限らない)を探してくる」ことを重要視しています。
例えば新製品が発売されたら顧客に知らせる、とか、顧客の好みのものを代わりに探してくるとか。
つまるところ、この手のサービスはどんどんビックデータが代わりにやり始めています。
個人の履歴や好みを調べ、広告表示させたり、と。

実際に、お店に行ってほしいものがなかった、じゃあ「お取り寄せしましょうか」と言われても
実は自宅でネットで注文したほうが早い(そしてネット注文は大した手間ではない)時代が既に到来しています。

端的に言うと、本書に書かれているノードストロームの時代は、顧客が先に要望を挙げてそれに店員が応える流れでした。
しかし、いまは多くのものが満ち足りてしまい、逆に店員が潜在的な要望を掘り起こすことが重要になっているのでないでしょうか。

今のような時代では、ノードストロームのアプローチ方法は逆に「ネットよりも不便」と感じるのではないかと思ってしまいました。
なので、時代に合わないなと感じました。

印象的なくだり

ノードストロームは、顧客サービスという視点から経営を見直していった。
サービスを徹底するため、顧客に接する機会の多い販売員の立場・意見を尊重している。
売り場における全権を委譲し、顧客サービス第一の姿勢で行動するように指導した。
例えば、返品は、いかなる事情においても―たとえ顧客の都合によるものであっても―上司の許可なく受けつけてよいこと、お客様が求めている商品が売り場にない場合には、ライバル店から購入してでも要求に応えること、などである。
自分の売り上げ目標は自分で管理させ、インセンティブを与えるための報酬システムを確立した(P.002)。

マッカーシーの名を有名にしたのは、彼が顧客の名前やサイズ、好みの傾向をすべて覚えているからだけではなく、彼が人々の心を自分の身に置き換えて考えることのできる人間だからである(P.030)。

コ・チェアマンの一人、ジョン・ノードストロームは言う。
「流行の商品も、あらゆるサイズが揃っていなければ何の意味もな。
自分に合ったサイズがないかぎり、他のサイズがいくつあろうと、顧客は関心も払わない。
それが小売業というものだ。」(P.047)。

小売業の厳しさ。

「英雄的」行為の事例の中には、真実でありながら、聞いた人々に真偽を疑われているものもある。
その最たる例は-しばしば全国紙に引き合いに出されるほど有名な逸話だが-ノードストロームの店員が扱っていないはずの自動車のタイヤの返品をにこやかに受け入れ、返金までしたという逸話である。
しかも、この話は真実だ。
七五年、ノードストロームはノーザン・コマーシャル・カンパニーからアラスカ州の三軒の店を買い取っている。
タイヤはそこで売られたものだった。
つまり、タイヤは店がまだノーザン・コマーシャルのものだったときに買われ、ノードストロームのものになってから返品され、ノードストロームが返金したというのが事の経緯である。
事実に尾ひれがついて神話になった例だろう(P.049)。

例の有名なエピソード。小売店業に従事したり、この手の本を読むを割りと多く目にします。
詳細を聴いてみると、そんなにびっくりするほどの話ではないようでした。ムムム。

返品がごくたまに販売員のストレスになることもある。
「お客様の中には、ドレスを二年間借りたあげくに返しておいでになる方もいます」。
サンフランシスコ郊外、コルテマデラ店のコレクターズフロアでデザイナードレスを販売するジョイス・ジョンソンは言う。
「でも、返品を一種のゲームと思えばいいのです。
商品を返されたとしても、にこやかに受けつける術を身につけることです。
なぜなら、そういうお客様は必ずまた店に来てくださいます」。
これは、のが二店舗経営に乗り出し、この寛大な返品制度を始めたときに、エヴェレット、エルマー、ロイドの三兄弟が思ったことと同じである。
彼らは、明らかに非常識で理不尽な返品への対応にうんざりし、もし精算の手間や苦情に対応する仕事がなければ、仕事はもっと楽しくなるはずだと考えた。
「そこで、店員にその場で精算させることにした。
そうすれば、顧客はその先、その店員のことも贔屓にするだろうと考えたのだ」とエルマーは当時を回想する。「当時、店員にはこんな指示も出した。『お客様が何か気に入らないことがあって、それについて苦情を言われたら、必ずその顧客の要望に答えること』」。
そして、返品制度実施から一年後、兄弟は返品に要した一年間の費用を算出し、このまま返品制度を続行してもやっていけると判断した。
以来、小売店の大半が返品を渋るなか、ノードストロームは返品制度にじっと耐え、むしろこの制度を費用のかからない恰好の口コミ広告にしてしまった(P.066)。

返品制度はただの顧客サービスではない、費用対効果をじっくり検討し、従業員の心理的ストレスも軽減する企業の政策だと知ったとき、本当にびっくりしました。
つまるところ、「ただの親切なお店」ではなく、しっかりしたビジネスだったということ。
ノードストロームのやり方を「サービス業に従事する人に対しての精神論(お客様に奉仕しろ、だとか)」としてしか伝えられない経営者は今すぐ自分の会社の政策を省みないといけない。

上席副社長兼南カルフォルニア地区担当のゼネラルマネジャー、ジェイミー・ボーが常にストアマネージャーたちに言うのは、くれぐれも部下に細かすぎる指導を行わないようということだ。
「細かすぎる指導は販売員から義務を取りあげることですし、それでは部下は司令にまで成長しません。気がついたときには部下は歩兵だけだったという結果になってしまいます。われわれがベストを尽くしていれば、配下の人々は司令にまで育ちます。というのも、自分で仕事をコントロールすることが身につくからです。(後略)」(P.072)。

顧客サービスを題材とした”It’s Not My Department”の著者ピーター・グレンは、ノードストローム以外の会社のマネージャーが「部下を認める」という大事な職務を忘れていることを批判している。
「サービス業に従事している人間たちが顧客にお粗末なサービスをしているのは、それが大きな原因の一つだ。部下たちが行う顧客サービスは、彼らがボスからどう扱われているかを反映するもので、彼らはボスから扱われたとおりのことを顧客にもする」(P.090)。

●ノードストロームは販売員を採用して彼らを好感の持てる人間に教育するよりは、好感の持てる人物を採用して彼らに販売を教えている。ノードストロームは「スマイルを採用し、販売技術を教えている」と言われている(P.168)。

至言。

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