若者はなぜ「繋がり」たがるのか―ケータイ世代の行方

若者はなぜ「繋がり」たがるのか―ケータイ世代の行方
PHP研究所
武田徹

読後の感想
色んな雑誌で連載したものを寄せ集めて、単行本にしました、という本。
そのためか、若干一貫性に欠ける印象をところどころで受けました。
本のタイトルの問いに対して、ある事柄を挙げて問いに答えるという帰納的方法を取っているため、事柄の部分の説明に終始した章も散見されました。
重要な部分については、他人の著書からの引用が多く残念。
結局、問いにはきちんと答えることが出来ておらず、タイトル負けの一冊です。

印象的なくだり
(前略)マスメディアに親しんで育った親は、この普通のことができなくなる、らしいのだ。
TVメディアに夢中になった経験を有する親と、その子の会話パターンを追跡調査した金原は、たとえば宿題が解けない子供に対して親がなぜわからないの」「どこが難しいの」とひたすら説明を求めるケースが多いことを確認している。
これは子供にしてみれば辛い。
どこがわからないのか、言葉で説明できるくらいなら問題は、すでにほとんど解決されているのだ。
しかし、「どこが」「なぜ」がわからないから、彼らは心底困っているのだ。
ところがそれをせずにひたすら説明を求めてしまう。
こうしてマスメディアの影響を受けてメタコミュニケーション能力の欠落した親が子供をスポイルする(P030)。

精神科医の野田正彰は、繰り返される凶悪な少年犯罪に共通する特徴として「他人の命を弄ぶことで自分の全能性を確認しようとする」傾向を挙げ、「魔術的全能感」というキーワードでそれを説明しようとした(P115)。

僕たちは「隠されるとつい見たくなる」習性がある。なぜか。
経論家の四方田犬彦は『映像要理』(朝日出版社)のなかで、「隠されているものには真理が宿っており、それを露わにすることで真理に到達できる」という価値観に僕たちが縛られていると指摘している。
たとえば旅の多くが、どこかに隠されているユートピアを捜し求める期待に促されている。
哲学とは、隠された真理を見届けようとする知的欲望の産物だ。僕たちは、いまはまだ隠されているが最終的には明らかになるはずの偉大な「意味」=真理の存在を信じ、その探求に取り憑かれるのだ(P143)。

(前略)、これは前にフリマを取材したときに、すごい印象的だったのが、たとえば四時半とかに催事終了の時間がくる。
公園の使用申請を出していた時間が終わって、さぁ片づけだとなる。
そのときに会場に残っているのが大量のごみです。
ぼくが取材したころのフリマは、けっこう置き去りにしていく人が多かった。
終わりの時間が近づくと出展者がだんだんと引き上げてゆくが、自分でもって帰るのが面倒くさいから、誰が残したものかわからないようにして置いていっちゃう。
これってすごいことで、フリマの終了時間までは中古とはいえ商品だったものが、フリマが終わると同時にごみになってしまう。
ということは、遡って考えると、それまでもじつはごみを売っていたわけです。言葉が悪いですけど。
(中略)時間が過ぎてしまえば、シンデレラの馬車じゃないけど、魔法が解けてしまうかのように、ごみに戻ってしまうものを商品として売っているのは変だなと思った。
これはつまり、使いたい人がいて、それを必要としている人に安く提供するのだ、賢い消費なのだとはいってはいるけれでも、裏を返していえばそこでは「使える」ことでしか人と人とが繋がっていない(P223-224)。

過去に読んだ類似の本と感想
『ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊』正高信男 感想はこちら

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ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
中央公論新社
正高 信男

読後の感想
 「ひきこもり」と「ケータイ」を使う若者、一見反対に見えるけれど、成熟した大人になることを拒否しているという点では同じである、という内容の本。

 もともとサル学者の著者が、その観点から見た面白い切り口が新鮮です。特に母親の耐久消費財としてのわが子という観点は、驚きでした。

印象的なくだり
 そもそも耐久消費財とは、他人と差別化する機能を果たしてはじめて、所有する意味を持つという側面が見逃せない。大衆化した商品ではどうしようもない。
 では、「私だけ」のものとして自分を光り輝かせてくれる可能性を秘めた、エネルギーをつぎ込める対象は何かないかと周囲を見渡した時、見つけたものがある。それこそ、「わが子」なのだった(P52)。

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