『菊と刀―日本文化の型』
講談社
ルース・ベネディクト, 長谷川 松治
読後の感想
日本に来たことがないのに、個々の事象から本質を捉える帰納的思考は、論理の流れがわかって非常に読みやすかったです。それと同時にあるテーマに沿って考えることの重要性も学びました。
日本人論の先駆けの存在ですが、戦争中にこれだけ相手を客観的に研究しようとする姿勢は、多くのものと教訓をもたらしてくれました。
日本人の可能性にも言及しており、明確に経済的復興を予言し明記していたりと、多くの発見がありました。
印象的なくだり
私に与えられた課題は困難であった。アメリカと日本とは交戦中であった。そして戦争中には敵を徹頭徹尾こきおろすことはたやすいが、敵が人生をどんなふうに見ているかということを、敵自身の眼を通して見ることははるかにむずかしい仕事である。しかもそうせねばならなかったのである。問題は日本人がどんな行動をするかであって、もし彼らと同じ立場に置かれたならば、われわれはどんな行動をするか、ということではなかった(P015)。
すべてが予知され、計画され、十分計画された事柄であるという仮定に立つことによってのみ日本人は、一切はこちらから積極的に欲したのであって、けっして受動的に他から押しつけられたのではないという、彼らにとって欠くことのできない主張を持続することができたのである(P043)。
アメリカ人はその全生活を、たえず先方から挑みかかってくる世界に噛み合わせている–そしていつでもその挑戦を受けて立てるように準備している。ところが日本人はあらかじめ計画され進路の定まった生活様式の中でしか安心を得ることができず、予見されなかった事柄に最大の恐怖を感じる。日本人がその戦争遂行中、たえずくり返していたもう一つの主題も、いかにもよく日本人の生活を語っていた。彼らが始終口にした文句の一つは、「世界中の眼がわれわれの一挙一動の上に注がれている」ということであった(P044)。
日本で生活した経験のある人たちは、天皇に対する侮蔑的言辞やあからさまな攻撃ほど、日本人の憎悪を刺激し、その戦意を煽り立てるものはない、ということをよく知っていた。これらの人びとは、われわれが天皇を攻撃する時、日本人はけっして軍国主義が攻撃されているのだとは考えないであろうと信じていた。
彼らはあの第一次世界戦争の後、猫も杓子も”デモクラシー”を口にした時代、軍人が東京の市中に出かける時には平服に着換えていった方が賢明だったくらいに、軍国主義が不人気だった時代にも、天皇に対する尊崇の念は同じように熱烈であったことを見て知っていた。
日本人の天皇に対する崇敬は、ナチス党の盛衰を卜するバロメーターであり、ファシズム的計画のあらゆる悪事と結びついていたハイル・ヒトラー崇拝とは、とうてい同日に談ずるわけにはゆかない、というのがかつて日本に居住していたこれらの人びとの主張であった(P046)。
軍部に対しても他の分野と同じことであって、階層的特権にかかわりのある場合には、日本人はたとえどのような結果になろうとも、その結果を甘受する傾きがある。それは政策について意見が一致するからではなくて、特権の境界線を踏み越えることをよしとしないからである(P115)。
このように日本人はたえず階層制度を顧慮しながら、その世界を秩序づけてゆくのであある。家庭や、個人間の関係においては、年齢、世代、性別、階級がふさわしい行動を指定する。政治や、宗教や、軍隊や、産業においては、それぞれの領域が周到に階層に分けられていて、上の者も、下の者も、自分たちの特権の範囲を越えると必ず罰せられる。
(中略)
日本の天譴は、日本がその「安全」の信条を国外に輸出しようとした時に訪れた。日本の国内では階層制度は国民の想像力にしっくりあてはまるものであった。それもそのはずで、その想像力そのものが階層制度によって形づくられたものであったからである。野心はそのような世界で具体化することのできるような野心でしかありえなかった。だが階層制度はとても輸出には向かないしろものであった。他の国ぐにには日本の大言壮語的主張を、無礼千万な申しぶんとして、いな、それよりもなお悪いものとして憤慨した。ところがあいかわらず日本の将兵たちは。それぞれの占領国において、住民たちが彼らを歓迎しないのを見て、驚くのであった。日本は彼らに、たとえ低い位置であるにせよ、とにかく階層制の中で一つの位置を与えてやろうとしているのではないか。そして階層制というものは階層制の低い段階に置かれているものにとっても望ましいものではないか、というのが彼らの疑問であった。
(中略)
日本人は自らに要求した事柄を、他の国ぐにに要求することはできなかった。できると思っていたことが、そもそも間違いであった。彼らは、彼らをして「おのおのにふさわしい地位に甘んずる」人間たらしめた日本の道徳体系が、他のところでは期待することのできないものであることに気づかなかった。他の国ぐにはそのような道徳をもたなかった。それはまぎれもない日本製である。日本の著作者たちはこの論理体系を当然のこととして仮定してかかっているから、それを記述しない。それで日本人を理解するには、それに先立ってまずその道徳体系を記述することが必要である(P120)。
日本はまた敵国の占領軍に対して不服従サボタージュを用いなかった。日本は日本固有の強み、すなわち、まだ戦闘力が破砕されていないのに無条件降伏を受諾するという法外な代価を「忠」として自らに要求する能力を用いたのである。日本人の見地からすれば、これなるほど法外な支払いには相違なかったが、その代わりに日本人の何物よりも高く評価するものをあがなうことができた。
すなわち、日本人は、たとえそれが幸福の命令であったにせよ、その命令を下したのは天皇であった、と言いうる権利を獲得したのである。敗戦においてさえも、最高の掟は依然として「忠」であった(P164)。
日本人画家マキノ・ヨシオの記述
殺人者でさえ、事情によっては許してやってもよい。しかしながら嘲笑だけは、全然弁解の余地がない。なぜならば、故意の不誠実なくしては、罪のない人間を嘲笑することはできないからである。
私はあなたがたに二つの語の私なりに定義を聴いていただきたい。殺人者–それは誰か合る人間の肉体を殺害する人間である。嘲笑者–それは他人の魂と心とを殺害する人間である(P196-197)。
われわれは恋をしているとか、なにかある個人的な願望を抱いているとかいる理由で、主人公に同情するのに、彼らはそのような感情に妨げられて自己の「義務」もしくは「義理」を果たしえなかったという理由で、主人公を弱者であるといって非難する。西欧人はまずたいていは、因襲に反旗をひるがえし、幾多の生涯を克服して幸福を獲得することを、強さの証拠であると考える。ところが日本人の見解に従えば、強者とは個人的幸福を度外視して義務を全うする人間である。性格の強さは反抗することによってではなく、服従することによって示されると彼は考える。したがって彼らの小説や映画の筋は、日本では、われわれが西欧人の眼を通して見るさいにそれに与える意味とは、全く別な意味をもつことが多い(P253)。
さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別することである。道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会は、罪の文化(guilt culture)と定義することができる。しかしながらそのような社会の人間も、たとえばアメリカの場合のように、罪悪感のほかの、それ自体はけっして罪でないなにかへまなことをしでかした時に、恥辱感にさいなやまされることがありうる。たとえば、時と場合にふさわしい服装をしなかったことや、なにか言いそこないをしたことで、非常に煩悶とすることがある。恥が主要な強制力となっている文化においても、人びとは、われわれならば当然だれもが罪を犯したと感じるだろうと思うような行為を行なった場合には煩悶とする。
この煩悶は時には非常に強烈なことがある。しかもそれは、罪のように、懺悔や贖罪によって軽減することができない。罪を犯した人間は、その罪を包まず告白することによって、重荷をおろすことができる。この告白という手段は、われわれの世俗的療法において、また、その他の点に関してはほとんど共通点をもたない多くの宗教団体によって利用されている。われわれはそれが気持ちを軽くしてくれることを知っている。恥が主要な強制力となっているところにおいては、たとえ相手が懺悔聴聞僧であっても、あやまちを告白してもいっこうに気が楽にはならない。それどころか逆に、悪い行いが「世人の前に露顕」しない限り、思いわずらう必要はないのであって、告白はかえって自ら苦労を求めることになると考えられている。したがって、恥の文化(shame culture)には、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はない(P272-273)。
彼らの見るところでは、日本人特有の問題は、彼らは、一定の掟を守って行動しさえすれば、必ず他人が自分の行動の微妙なニュアンスを認めてくれるに違いない、という安心感をたよりとして生活するように育てられてきたということである。外国人がこれらの礼節を一切無視しているのを見て、日本人は途方に暮れる。彼らはなんとかして、西欧人が生活の基準にしている、日本人の場合と同様に綿密な礼節を見つけ出そうとする。そしてそんなものがないことがわかった時、ある日本人は腹が立ったと言い、ある日本人は愕然としたと言っている(P275)。
この精神的自由の増大への過渡期に当たって、日本人は二、三の古い伝統的な徳を頼りとして、平衡を失わず、無事荒浪を乗り切ることができるだろう。その一つは、彼らが、「身から出た錆」は自分で始末するという言葉で言い表している自己責任の態度である。この比喩は、自分の身体と刀とを同一視している。刀を帯びる人間に、刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同様に、人はおのおの自己の行為の結果に対して、責任を取らなければならない。自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも、遙かに徹底して解釈されている。こういう日本的な意味において、刀は攻撃の象徴ではなくして、理想的な、立派に自己の行為の責任を取る人間の比喩となる。個人の自由を尊重する時代において、この徳は最もすぐれた平衡論の役目を果たす。しかもこの徳は、日本の子供の訓練と行為の哲学とが、日本精神の一部として、日本人の心に植えつけてきた徳である(P363)。
日本は、もしも軍国化ということをその予算の中に含めないとすれば、そして、もしその気があるならば、遠からず自らの繁栄のための準備をすることができるようになる。そして東洋の通商において、必要欠くべからざる国となることができるであろう。その経済を平和の利益の上に立脚せしめ、国民の生活水準を高めることができるであろう。そのような平和な国となった日本は、世界の国ぐにの間において、名誉ある地位を獲得することができるであろう。そしてアメリカは、今度も引き続きその勢力を利用してそのような計画を支持するならば、大きな助けを与えることができるであろう(P385)。