『「超」整理日誌 地動説を疑う』

ダイヤモンド社
野口 悠紀雄

読後の感想
 サブタイトルの『地動説を疑う』に書かれたとおり、今まで常識だと思っていたことは本当に常識なのか、本当に理解しているのか、という視点を強く意識させられる本です。

 Ⅰ部の「常識に対する疑いが社会を前進させる」というのはまさにその通りだと思いました。「あるべきものがない」というのは意識しても、気づくのは難しいでしょう。

 難しい事象も身近な具体例に置き換えて書かれており、分かり易さを非常に意識しているのが、読み取れます。良書だと思います。

印象的なくだり

本の「積ん読」は、一般にはよくないこととされる。だが、私は、大変意味があると考えている。
自分の蔵書なら「自分の側」にあると感じられるから、本のほうから近づいてくる。
そして、いつかは読めて、本当に「自分の本」になる。

五年も一〇年ものあいだずっと積んでおいた本を、何かのきっかけで読了し、自分のものとしたことも多い。
これに対して、書店や図書館にある本は、なかなか読めない。いつになって、「あちら側」のままだ。
だから、読みたいと思った本は、迷わず買うべきだ(P020)。

分からなければ、聞けばよい。実際、質問できるのは、自信の表れなのである(P030)。

内容を本当によく知っている人は、分かりやすい言葉で説明するものだ。
アルファベット略語を振り回すのは、理解していないことの証拠と考えて、まず間違いない(P031)。

固定観念とは、ある刺激に対して常に同じ反応をすることである。
刺激に対する最適反応をいちいち考えていたのでは緊急事態に対処できないし、思考作業のムダだから、こうした短絡的・画一的行動様式が一定の合理性を持っていることは間違いない。しかし、それしかできないのであれば、昆虫と同じである(P055)。

「情報」については、必要性の判断が非常に難しい。そして、不要なものを大量に抱え込む危険が大きい。
しかも、情報は、「多ければ多いほどよい」というわけではない。重要な情報が過剰な情報のなかに紛れてしまって分からなくなってしまうということもある(P062)。

地上デジタル・テレビ放送について
何より最大の疑問は、「ハイビジョンの画像やCD並の音声」にふさわしい、充実した内容が提供されるのだろうか?ということだ。
現在とあまり変わらぬ内容であれば、情報量が多くなっただけアラが目立つだけではなかろうか?
「髪の毛一本ずつ見分けられる鮮明画像」というが、タレントが馬鹿騒ぎするだけの番組で髪の毛が見分けられても、馬鹿さ加減が拡大するだけだろう(P068)。

言葉は、登場自分物の文化的・社会的背景を端的に表している。それを理解できないことは、作品の最も重要な部分を理解していないことを意味する。
そう考えると、異なる文化の理解はなんと難しいのだろうと、ため息が出る。言葉が重要な役割を担う文学、演劇、映画は、絶望的なのだ(P084)。

これまでの日本で、リスク評価の重要性が意識されなかったのは、つねに値上がりする「土地」という絶対確実な担保があったからだ。
これさえ押さえておけば、貸し付けの安全性は確保された。
銀行にとって重要だったほとんど唯一の課題は、支店を拡大して預金を獲得することだった。
支店の開設は大蔵省の認可事項となっていたため、当局とのつながりを密にすることが必要だった。
「モフ担」と呼ばれた大蔵省担当係が出世コースになったのは、当然の帰結だったのである。
「地価が上昇し続ける」という環境のなかで、日本の銀行のこうした体質は、まったく合理的なものだったと考えざるをえない(P106)。

「食糧安全保障」ということが言われる。ところが、そう言う人の多くは、「安全保障のために国内生産を」と言う。
しかし、供給源分散こそが、食糧安全保障なのである。われわれは、すべての卵を一つのバスケットに入れるという愚を犯してはならない。
「自給率が低いから心配」というのは、国内供給者の論理なのである。われわれは、そうした議論に惑わされることなく、消費者の立場から問題の本質を見きわめなければならない(P178)。

この本をどう活用するか
毎日当たり前に受け止めていることについて、もう一度理由をつけてみようと思いました。全てを疑ってみます。