『マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった』

『マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった』

ランダムハウス講談社
ジョン ウッド, 矢羽野薫

読後の感想
ネットワークの力と一言は表せない、小さな力を集約して大きな流れを作る過程がスリリングでした。離職の瞬間の記述はとても生々しく、悩んでいる様子は、彼も当然ながら一人の人間なのだなと共感して読めました。多くの人間から、少しの善意を有効に生かせる方法とは、一人の人間の情熱なんだなぁ。いい本です。
友人のSに薦められて読み始めましたが本当にいい本でした。
ドラッカーも指摘しているように、これからは地域性ではない個人の嗜好にあうコミュニティに属したい要求が強くなっていくと思います。
例えばNPOのボランティアのような。
そういった団体をどうやって存続させていくのか、という重要な示唆に富んだ一冊でした。無償でいけるのはあくまでも熱意のある人「だけ」だということを胆に銘じなければなりません。

印象的なくだり
ダライ・ラマによれば、僕たちのいちばん基本的な義務は、この地球上で自分たちより「持っていない」人びとを助けることだ。幸運にもいい暮らしができているなら、自分が恵まれていることを知りなさい。貧困のサイクルを断ち切るために助けを必要としている人びとに手を差し伸べることによって、仏に感謝しなさい、と(P023)。

「ポーターは、旅行業界の歴史を通じて、レンタカーを洗車した人はだれもいないと言いました。所有している意識がなければ、長期的なメンテナンスはしないのです。(後略)」(P.105)

慈善活動の世界において、資金集めがいかに軽蔑すべきささいな仕事とみなされ、できるかぎり無視したいと思われているかに、僕は驚いていた。
(中略)
現実を無視しても問題は解決しない。モノを売るたびに損を出していたら、そのビジネスはいずれ行き詰まるだろう。多くの慈善活動は資金繰りに苦労しているが、見て見ぬふりをして、救世主が現れて助けてくれるだろうと思っている。これは悲劇を生むパターンだ(P108)。
よりたくさんの学校と図書館を建設する資金を集めるために、これからも僕は何でもする。ただし、ほかの慈善団体が実際に成果をあげているひとつの方法だけは、意識して避けている。僕が「泣き落し作戦」と呼ぶものだ。
世界に貧困があることはだれでも知っているし、ほぼすべての人がそのことを悲しんでいる。一部の慈善団体は、ハエにたかられた子供や、土ぼこりのなかに横たわっている栄養失調の家族の写真を見せると、寄付金集めに効果があると考えている。実際にそうした活動をしているセレブもいるが、僕に言わせれば、哀れみを利用して寄付者に懇願することは、貧困者をおとしめることになる。そのような写真を見せることは人間の尊厳を否定している。罪悪感をマーケティングに利用してはならないと、僕は思うのだ(P.115)。

ルーム・トゥ・リードのモットーは、「チープ&チアフル(カネをかけずに元気よく)」(P.154)。

NPOのマイクロソフトをめざす
ルーム・トゥ・リードを差別化するひとつの方法として僕が考えたのは、実際の成果を報告し、新しい情報をこまめに伝えることだ。「やろうと思っていること」をはなすのではなく、やってきたことを話そう(P161)。

マイクロソフトでは、「個人を攻撃してはいけないが、アイデアは攻撃していい」といわれている。だれとでも、どんな内容でも議論する権利がある。マイクロソフトの食物連鎖のどこに位置する相手だろうと関係ない(P163)。

マイクロソフトのまねをしたいと思う三つ目の組織文化は、ビルとスティーブの毎日からから学んだ-具体的な数字に基づくことだ。すべては数字に置き換えることができ。すべての管理職は自分の仕事に関する数字をひとつももらさず精査すること。その精神はマイクロソフトに浸透していた。
(中略)
「バルマー主義」で僕がおそれていたのは、「きみは自分の数字も知らないのか」と言われることだった。
(中略)
スティーブの数字攻めは厳しかったが、理由があることはわかっていた。幹部が自分の仕事にどれだけ関心を払っているか、試していたのだ。関係のある数字をすべて確認して、頭にたたき込むくらいの情熱がなければ、データと実績を中心に回るスティーブの世界ではやっていけない(P165)。

「インドや南アフリカなどたくさんの国々に、ブーのような子供がたくさんいるんだ。彼らみんなを助けたい。枠をはめたくない。地理的な範囲でも、大きな目標をもつという意味でも。五000、一万、いや二万の学校と図書館を建てることが、どうして不可能なんだ?たくさんの村が助けを必要としていることはわかっている。いまいちばん足りないのは、現地で活動するチームを増やすこと、もちろん多くのプロジェクトに必要な資金を集めることだ。そこでネットワークが必要になる」
マイケルの答えは簡潔だった。「なるほど、資金が必要なわけだ。どこから集めればいいかを話し合おう。裕福な都市のリストをつくって・・・・・・金の集まるところへ行こう。必要なのは、それぞれの都市で、ものごとの進め方がわかっている人間を見つけることだ。だれもがジョン・ウッドに心酔して、世界を救うために会社を辞めるわけじゃない。でも、十分な収入を稼ぎながら、キャリアのためでなく人生のために何かをしたいと思っている人は何千人、いや、たぶん何百万人といるだろう。きみのような人があと一0人ではなく、週に数時間ずつ貢献できる人が数千人必要なんだ」(後略)(P180)。

(前略)子供に二回目のチャンスはありません。五年待っていたら、五歳の子供は一0歳になります。小学校に行けなかったままになってしまうのです(後略)(P212)。

僕にとってのヒーローとは、戦場と化した国や飢饉に苦しむ国、自信など自然災害に襲われた地域で身を投げだして働く医師やジャーナリストだ。彼らは、過去をコントロールしたり変えたりすることはできないとわかっているが、未来に影響を与えることはできると心から信じている。悲劇に身がすくむのではなく、悲劇をバネに行動を起こす人びとだ(P245)。

世界を変える手助けをするために自分の人生を少し変えてみようと思っているなら、僕の心からのアドバイスをひとつー考えることに時間をかけすぎず、飛び込んでみること。
もちろん、あらゆる現実を考えると、このアドバイスを歓迎できないことは承知している。学費ローンの返済が残っていたり、友人や家族に相談しなければならなかったり、まず本格的なビジネスプランを書きたいという人もいるだろう。そうしたことを「いっさいやるな」と言っているのではない。ただ、それに時間かけすぎると勢いを失ってしまうのだ。
最大のリスクは、たくさんの人が、あなたを説得して夢をあきらめさせようとすることだ。世の中には、うまくいかない理由をあげることが大好きな人が多すぎて、「応援しているよ」と励ましてくれる人が少なすぎる。一人で考える時間が長いほど、否定的な力に引き寄せられて取り込まれやすくなる(P247)。

『前略…。』―青年社長・渡邉美樹が贈る30通の返信

『前略…。』―青年社長・渡邉美樹が贈る30通の返信
東洋経済新報社
渡邉美樹

読後の感想
ワタミの渡邉美樹さんが、質問に答えるという体裁で「起業」について語る内容です。読んでいると、人柄が伝わってくるような親身な言葉と、いままでコツコツと積み上げてきたのが分かる厳しさが同居しており、精神面の強さを伺わせます。経験に基づく記述が多く「一一、友人を部下にする」「二二、降格人事」などはもし自分ならどうする、と考えざるをえませんでした。こんな風に考えられる日が自分にも来るのだろうか、と自問自答しました。
ますますファンになりそうです。

印象的なくだり
FCの基本的な考え方は、「本部はモノ(ノウハウ)を出します。加盟店はカネと人を出してください」というものです。しかし、本当に儲かるノウハウがあるのなら、なぜ本部は自分たちでやらないのでしょうか。
考えられることは、
一、一刻も早く展開してマーケットを押さえたい。そのためのノウハウはあるが、急成長するための資金や人材が調達できない。
二、多くの人に事業機会を与えようという信念のもとにFC展開している。
三、本当はノウハウがない。
一や二なら問題はありません。しかし実際には、三のケースがほとんどです。そんなところに加盟したらたいへんなことになります。直営店が儲かっていない、加盟店が次々やめていく、二号店、三号店をやりたいというFCオーナーがいない、そんなFCには近づかないことです。
このほか、よいFCを見分けるにはどんなところに気をつけたらいいのかというと、まず、簡単に加盟できるFCは要注意です。
FCは本来、加盟店を厳選しなければサービスの質を一定水準に保つことができません。それに、儲かるFCは口コミなどで広く知れ渡っていて、希望者が殺到するものです。一般的には加盟しにくいFCほど、よいFCだということができます。
実際に加盟店を見て回ることも欠かせません。経営者から直接、売り上げや資金繰りなどの話を聞くのも参考になります。
本部では見学用に加盟店を紹介してくれますが、そうした店は儲かっている優良店に決まっています。そうでない店を探し、オーナーと話をしてみるとよいでしょう。
うまくいかないとき、どんな対応をしてくれるのか、社員の派遣はあるのか、などでFC本部の技術と誠実さがよくわかります(P033)。
当たり前のことを、当たり前にやっていても、当たり前の結果しか出ません。事業を成功させるということはたいへんなことです。起業には、異常なまでの思いいれと異常なまでの努力が必要ですが、成功させるということは、もっとたいへんなことなのです(P040)。

私自身は資格や経験はまったく問題にしませんし、むしろそれらに惑わされるのは危険だと考えています。会社が急成長する局面では、資格や経験を持った即戦力が必要になってきますから、ついつい前職における肩書きとか、キャリアとかにひかれて採用しがちですが、志が異なれば結局はたもとを分かつことになります(P064)。

(前略)、ワタミでは、サービス部門は半年たったら簡単にはバイト代が上がらないようにしています。つまり、もう辞めてもいいですよということです。もし、それ以上高い給料を欲しいのだったら、キッチンを経験した後、トレーナー、店長代行というように責任を求めていきます(P069)。

課長以上の採点は私がします。一応、部長から推薦はあるのですが、課長以上については今のところ一人ひとりの顔が見えていますから、評定会議で私自身が決めます。
部長以上については、全員がいるところでの合議の上、決定します。
こうした作業にはたいへん時間がかかりますが、評価は正しく行わなくては意味がありません。人間誰しも、悪い評価を下されることよりも、正しく評価されないことのほうが苦痛を感じるものです。働こうという気にならないものです。
人事とは、いかにいい人材を採用し、成長させ、ちゃんとした基準に従って評価し、どのようなかたちでインセンティブを与えるかということです。つまり採用、育成、評価、インセンティブ、この四つをどう組み立て、どう充実させるか、ということですが、ベースにあるのは信頼です。いかにシステムがしっかりしていても、ベースに信頼がなければ人事はうまくいきません。
社員を教育し、成長させることについては、私の中で最も優先順位が高い仕事のひとつだと考えています(P109)。

そもそも、無理な人脈づくりにどれほどの意味があるのでしょう(中略)。
そんな時、私は次のような内容の返事を書きます。
「お互いが必要とするときに出会うのが一番です。不自然なかたちでお目にかかっても、お互いになんのメリットもありません。いずれ良いタイミングでお目にかかりたいですね」(P.114)。

人間、信用されていないと思えば、どうやって裏切るかを考えるようになります。信用されていれば、どうやってその信用に応えようかと思うものです(P.153)。

『お言葉ですが…〈4〉猿も休暇の巻』

『お言葉ですが…〈4〉猿も休暇の巻』
高島俊男
文藝春秋

読後の感想
言葉遊びが大好きな人にはたまらない一冊です。正字のお話から、語源、歴史まで幅広い知識の洪水に圧倒されて、非常にわくわくします。皮肉やさんで、ウィットに富む文章にチクリとやられ、クスリとします。索引が着いているところがうれしいです。ちなみにタイトルは、salmon cucumberより。

印象的なくだり
雑誌を見ていたらあるかたが、童謡「赤とんぼ」の三番、「十五でねえやは嫁にゆき、お里のたよりもたえはてた」についてこう書いていらっしゃる。「へーえ」と意表をつかれた。
<現在では十五歳で嫁に行くなどとは考へられないし、小子化で十五歳の長姉が離れた何番目かの弟を背負つて子守りをすることもなくなった。>
筆者は昭和三十七年生れの高校教諭とある。
意表をつかれたのは、このかたは「ねえや」を姉と解していらっしゃるからである。これがそのまま掲載されているところを見ると、編集者もそう考えているのであろう。
わたしはずっと、「ねえや」というのは子守りにやとわれた少女だと思っていた。
多分それでいいのだと思う。
「赤とんぼ」を作った三木露風は兵庫県龍野の人で、わたしはその隣町の者であるが、このあたりでは姉のことを「ねえちゃん」「おねえちゃん」とは言うけれど、「ねえや」とは言わない。一般にもそうであろう。
わたしが子どものころには、農村で子守りにやとわれる少女というものはもうなかった。しかし明治二十二年生れの露風が小さいころにはあったであろう。それが「ねえや」である(P031)。

謙遜は往々にしてかたちを変えた自信の表明である。痛切なひけめは到底それを謙遜として口に出し得ないはずであった(P239)。

『私の嫌いな10の人びと』

『私の嫌いな10の人びと』
新潮社
中島義道

読後の感想
他人が何も考えていない、というのは別に頭が悪いからではないのだなぁ思いました。物事について深く考えるコストを投じない→考えることに価値を見出さない→考える前提として現実を見据えるのが怖いというように著者は考えているようです。
文章の中に三島由紀夫の言葉が入っていましたが、猛烈に自分の心に突き刺さりました。ちょうど読んだ時期がよかったのでしょうね。

印象的なくだり
(前略)、人間ですから、かつてどんなに絶大な恩恵を受けたとしても、つい忘れてしまうこともあるでしょう。ここには深層心理が働いていて、ある人に足を向けて寝られないほどの恩恵を受けたからこそ、忘れてしまう、ということもあるかもしれません。なぜなら、そのとき自分が彼からそれほどの恩恵を受けたことはありがたいことながら、やはり同時に自分の不甲斐なさがちくちくとからだを刺し通して、無性に辛いからです。忘れたいから、忘れてしまうのです(P.024)。

卒業生へのはなむけの言葉
<引用>
学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという編集部からの依頼であるが、じつはとりたてて何もないのである。しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。
振り返ってみるに、小学校の卒業式以来、厭というほど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、すべて忘れてしまった。いましみじみ思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ。なぜか?言葉を発する者が無難で定型的な(たぶん当人も信じていない)言葉を羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。
だとすると、せめていくぶんでもほんとうのことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスは何ももち合わせておらず、ただ私のようになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。これで終わりにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。

後日談。これはかなり評判がよかった。少なからぬ学生や先生が「中島先生の文章がいちばんおもしろかった」と言ってくれましたし、中には「ほんとうのことを書いているのは中島先生だけだ」とさえ言ってくれる人もいました。ただそう言うだけの人、そして自分は依然として因習と慣習にかんじがらめになった言葉を発している人、そういうずる賢く不誠実な人に正確に矛先を向けて、私は書いているのに!(P.052)

曽野綾子の講演集『聖書から学ぶ人生』(新潮カセット)の中にある難民とその援助に関するところをじっくり聞いて、センチメンタルな同情心ではなく、真の意味で彼らを救うことが、どんなに気の遠くなるほど大変なことか、自覚してもらいたい。難民というと「心のきれいな犠牲者」と思っている人が多いでしょうが、とんでもない。曽野さんは、「生きるために、彼らがどんなにずる賢く、どんなに嘘つきか知っていますか?」と問いかける。
(中略)
世話を焼きたい人とは、自分が世話を焼きたい人に、世話を焼きたいときだけ、世話を焼く人です。彼らが、それはすべて自分の自己満足のためだと自覚してくれればいいのですが、おうおうにして相手に「感謝」を求める。これだけしたのに、自分に対する「感謝の気持ち」が相手にないとわかると、むくれる。いいですか、人の世話を焼くのは自由ですが、断じてそれだけは望んではならないのです。場合によっては、相手から手ひどい仕打ち、理不尽な誤解を受けてもしかたないと割り切って、人の望むことをかなえてあげるかぎり、あなたの援助行為は本物でしょう(P.062)。

私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということであり、とすると「ひとに迷惑をかけるな」と命ずることは「生きるな、死ね!」と命令するようなもの。しかも、だからといって自殺しても(普通)親兄弟姉妹はじめ、膨大な数の他人に迷惑をかけてしまう。では、どうすればいいのか?まさにここから思考を開始すべきなのです。正直にこの地点に立ち止まれば、ほとんど五里霧中で途方に暮れていても、いや、だからこそ、一つだけくっきりとわかってくることがある。それは、「けじめだけは大切にしろ」とか「曲がったことだけはするな」とか「ひとの迷惑を考えてみろ」というたぐいのお説教は簡単に口にできないということです(P121)。

自分が何を「考えているか」全部言語化してみろ!(P123)。

三島由紀夫ですが、彼は文芸評論家の古林尚との対談中で(「三島由紀夫最後の言葉」新潮カセット)、「私だって飢えた子がいたら助けてやりたい。でもそれは私のミッションではないと思っている」と言っている。
私には、三島の言うことがよくわかります。当時(一九六○年~七○年代)は、サルトルや大江健三郎のような行動派が「飢えている子供がいるのに、文章を書いていていいのか?」という人道主義的問いを作家たちに発し、それに「悩む」風潮が強かった。時代背景を考慮すると、これほどきっぱり「弱者」を切り捨てている三島は潔いと思います(P143)。

私は、納得できないときは相手を怒鳴りつけたり、めんめんと抗議したりしますが、いわゆる私にとっていちばん大きな欲求は、相手に自分の不快さを伝えること。「私は不快だ」というメッセージが相手に伝われば、たとえその理由をわかってくれなくても、不快の原因を取り除いてくれなくても、かまわない。これは哲学をしているおかげなのですが、他人に自分の信念をじっくり聞いてもらい、かつ「なるほど」と思わせ、自分のこれまでの信念を改める、なんてことは至難の業、いやほとんど不可能だと思っています(P147)。

「おれ、バカだから」と言う人って、じつはほんとうにバカなのです。バカであることはその言動のすべてから明らかであるのに、話がややこしくなるとすぐこう言う。そして、窮地を逃れようとする。こんな人には、上段から構えて、「あなたがバカであることは、とうにわかってるのです。さっきから、バカにもわかるように話しているんです」と言いたくなる(P177)。

もし私が恋愛相談を受けたら、人生そんなにおもしろいことはなかなかないんだから、どんなに可能性が少なくても、ずんずん突き進み、相手も自分もぼろぼろになり、お互い人生を棒に振り、まわりの人をも巻き込み、みんなに迷惑をかけ、警察沙汰になってもいいから、どこまでもどこまでも貫きとおしなさい、と助言しようと思うのですが、それと知ってか、誰からも恋愛相談は受けません(P191)。

最後に、私の嫌いな一〇〇の言葉を(本書の表題と重ならないようにして)挙げておきましょう。
妥協、希望、まやかし、調整、欺瞞、自己欺瞞、弱者、ほどほど、穏便、鈍感、無自覚、無感覚、無頓着、腹芸、如才ない、分、タテマエ、あきらめ、怠惰、惰性、和気あいあい、平穏無事、和、幸福、優しさ、思いやり、穏健、道徳、倫理、善人、平凡、月並み、常識、普通、日常、家庭、家族、郷土、雑然、混沌、清濁併せのむ、無難、安寧、安心、無視、温情、姑息、浅はか、なあなあ、お互いさま、平凡、大衆、無教養、無知、臆病、会社、世間、世間体、がんばる、みんな、連帯、生真面目、感謝、恩、義理、しきたり、らしさ、誇り、栄誉、二枚舌、無視、隠避、自己防衛、根回し、無口、おべんちゃら、おだて、追従、お世辞、社交辞令、迎合、付和雷同、きれいごと、因習、虚飾、形式主義、ことなかれ主義、役所、良識、お説教、式、式辞、紋切り型、中庸、協調性、実直、朴訥、堅実、嘘も方便、しかたない、大人の考え(P.205)。

『私が嫌いな10の人びと』中島義道

『勝手に絶望する若者たち』

『勝手に絶望する若者たち』
幻冬舎
荒井千暁

読後の感想
筆者は産業医で、企業内での退職(間際)に際しての様々な事情を見てきたようです。それを踏まえて読んでも、仕事をやめるという結果が絶望から生じた、と読み取ることは難しいように思えます。むしろ、多くページを割いていたOJTの失敗のほうが要因としては大きいように思えました。タイトルでちょっと煽りすぎです。
タイトルの内容より、むしろOJTやマニュアル作成の参考になりそうです。

印象的なくだり
OJTとは、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(on-the-job training)の略で、企業内で行われる職業指導手法のひとつとして、よく知られています。職場の上司や先輩たちが、具体的な仕事を通して、仕事に必要な知識や技術、態度などを部下や後輩たちに指導し、彼らがそれを習得することによって全体的な業務処理能力を高めるという手法です。
これには意図的、計画的、継続的という三つの要素が不可欠です。場当たり的な指導や、いきなり業務を行わせて、困ったときにだけサポートするような指導方法はOJTとは呼びません。
(中略)
OJTの実際は四段階職業指導法と呼ばれ、やってみせる(Show)→説明する(Tell)→やらせてみる(Do)→補修指導する(Check)というプロセスから成り立っています。
実際の手法はかなりきめ細やかで、次のような内容が推奨されており、中世以来の徒弟制度にはみられなかった近代型の職場指導といわれます。
A.新人を配置するとき
まず、安心できる雰囲気が大事。部下たちが仕事に関して、何をどこまで知っているか、事前に調べる。学習に対する興味を持たせ、適切な「持ち場」を用意すること。
B.作業をして見せるとき
注意深く、根気強く説明し、実際に作業を見せ、必要であれば図示し、質問をする。
この際、キーポイントを外さないこと。一度に一点ずつ、はっきりと、丹念に教える。一度に何点も教えることは、相手の負担増になり消化不良を起こす。相手が覚える限度を越えてはいけない。
C.効果を確認するとき
実際に仕事をやらせてみる。相手に説明させながらやらせることが大事。どこがキーポイントかも実際に説明させる。こちらから質問して正解を尋ねることも行い、相手が理解した、と判断できるまで継続する。
D.フォローアップするとき
わからないことが生じたら、誰に質問すればよいのかという相手を判断させる。チェックは頻繁に行う。質問は積極的に行うよう促す。進歩に応じたキーポイントを、相手自身に見つけさせること。そうして特別指導や直後のフォローアップの回数や量を、徐々に減らしてゆく(P.094)。

茨城県の東海村にある原子力発電所で臨界事故が起きたことがありました。事故をまとめた事故調査委員会報告から見えてきたのは、素人の手による安直な創意工夫でした。マニュアルには、業務を遂行するための手順がいくつも書かれていたのですが、現場担当者はその手順の一つひとつが「不要」なものに見えたようです。ためしにひとつを省いてみたら、業務に支障はありませんでした。
(中略)手順を省く前に「どういう理由や必要性があって、この項目があるのか」を考える行為がおそろかになったとき、マニュアルは意味を失います。列記されているものは余計ないことまで書かれていると各自が思うようになってしまえば、すべては自由気儘に行われるようになります。もはやそこに技術の伝承なる思想は存在しません。
マニュアルや標準動作、社内規則の必要性はどこにあるかなどについて、各自・各職場で再討論する時期が来ているように思えます。大事な考え方は「どういう理由や必要性があって」という視点からモノを考える姿勢です(P.115)。

若者たちの「離職理由」をよく眺めてみると、そこに欠落しているものがあることがわかります。≪後工程≫という概念です、後工程を考える姿勢とは、自分の仕事を受け渡す人のことを考えよ、という姿勢です。仕事を受け取る者の立場に立って仕事をせよ、ということであり、より
完成されたかたちで仕事を渡せということでもあります(P.138)。

若い人のなかには、これだけ多くの他人がいるのだから、そこに自分の才能が発揮できる場があっていいはずだ、と思っている人もいるようです。
けれども主観と客観が融合したような場所のことを、西田幾多郎は”無の場所”あるいは”絶対無”と呼びました。自分と他人、主観と客観がひとつになって融合した無なる場所においてのみ、人間は存在するという考え方だとわたしは理解しています。他人という鏡に映し出され、切り取られた部分においてのみ自分がいると換言してもよいでしょう。
必要なことはすべからく相関関係のなかから生まれてきますし、相関関係とは自分と他人、主観と客観がひとつになって融合した無なる場所で発生しているとわたしには思えるのです(P.139)。

中堅にいる人たちが辞めていく理由。それはたぶん、徒労にも似た絶望感のように思われます。何に対して絶望するかといえば、おそらく、考える余裕がすっかりなくなった業務に対してであり、考えること自体を放棄し、喚起さえしなくなった組織体自身に対してであり、不要なものばかり身につけて重くなってしまった自分の身に対してでしょう(P.149)。

(前略)「必要とされていることのなかから、興味がもてるものを探しなさい」(後略)(P.164)。

最近笑えなくなったとおっしゃっていたけど、笑顔が戻ってきましたね。
あなたの笑顔。それはあなたが、もともと持っていたものです。思い出しましたか?(P.179)。