『暴力団』

読後の感想
暴力団のことをこんなに理解しやすく書かれた本は初めてではないでしょうか。
平易な文章と構成、そしてなにより暴力団の行動の原点を解説している点が
非常に印象的な本でした。
この手の本だと、必要以上に美化して書かれてるものもあったりするのですが
本書は暴力団のことを賛美もせず、また不必要に陥れることもなく
ただただ淡々と事実関係だけを書いていくだけの本であり
それが(客体が)気に食わなかったのか、著者は暴力団に刺されたりもしてます(え?
(あとで著書を見たら、ソレ系の本では有名な人だったり

お暇ならどうぞ。

印象的なくだり

人気タレントの島田紳助も山口組幹部と長年交際していたことが明るみに出て、二〇一一年八月、芸能界から引退すると記者発表しました。
(中略)
警察の指導もあり、暴力団との交際は断つべきだと考え始めた芸能プロダクションと、交際ぐらいはセーフだと考える芸能人との間に突然走った亀裂です(P138)。

関東連合OBは、なぜ暴力団から距離を置こうとしているのでしょうか。
いくつか理由はありますが、一番の理由は暴力団に入るメリットがなくなったからです。
若い暴力団員が貧しくなり、格好よくなくなりました。暴走族を惹きつける吸引力をなくしています。
暴走族としても、今さら暴力団の組員になっても、先輩の組員がああいう状態では、と二の足を踏みます。
暴力団に入ったとします。
なぜ親分ばかりか、兄貴分や叔父貴にまでへいこら頭を下げなければならないのか。
組員として一人前になっても、稼ぎはたかが知れています。そのくせ組みには月々回避を納めなければならず、警察には組員という理由だけで目をつけられ、ちょっと店からみかじめなど取ろうものなら、すぐ「署に来い」と引っ張られます。
おまけに組員であると、銀行から新規口座の開設を断られます。水道光熱費の自動引き落としも利用できず、貸金庫を借りたくても貸してくれません。公共工事の下請けに入りたくても、都道府県の条例があって、入れてくれません。
暴力団に入ると不利なことばかりですから、わざわざ組員になって、苦労する気になりません。それより暴走族時代のまま、「先輩―後輩」関係を続けていた方が気楽だし、楽しいと考えます(P157)。

こうした暴力団組員はどういう性格の人が多いのでしょうか。前にも紹介しましたが、『病理集団の構造』の岩井弘融は、組員の特性の一つとして、瞬間的感覚と短絡的快楽主義を挙げています(P183)。

妥協は禁物
彼らの世界に「安めを売る」という言葉があります。安っぽく見られるといった意味でしょうが、彼らを相手に安めを売ってはならないのです。手ごわい奴、正面からぶつかることを恐れない奴だと思わせないと、カサに懸かってどんどん攻め込んできます。
妥協することは禁物です。
たとえばあなたが銀行の融資係だとして、暴力団に強要されて融資をすれば、暴力団はその融資を感謝するでしょうか。
逆なのです。その場では大いにありがたがるかもしれませんが、すぐに手のひらを返すようにして、あなたが特別に融資したという事実を逆手にとって脅迫し(つまりあなたが融資した事実があなたの弱味になるのです)、さらなる融資を強要してきます。
このように恩を仇で返す人たちだと知らなければなりません(P194)。

別に金融機関だけではなく不動産業にも同じことが言えるんだよねぇ。
反社会的勢力(いわゆる「反社」)の扱いはここ数年厳しくなりました。
と同時に、抜け道を探る意識も強くなったのではないのかなと思います。

『「うつ」とよりそう仕事術』

読後の感想
「傍からみてると大変そうだけどどうしていいのかよく分からん」というのが僕の率直な印象。
誰しもがなる可能性がある、いわゆるよく言われる「甘え」とか「気合が足りない」とは決して思わない。
実はそのように言われる原因の一つとして、外見だけじゃ分からないというのがあるのかなと思う。

むしろうつに対して軽々しく批判できる人は、ちょっと想像力がないのかなぁと心配してます。

僕は敢えて「よく分からないからこそ」想像力を発揮して、可能な限りそばに近づけたらなぁと思う。

いわゆる「寄り添う」という形。
うつ状態にある人に、決して同化しない(できない)し、否定も肯定もしない。
いい言葉だなぁと思い使っています、「寄り添う」。

印象的なくだり

復職はゴールではありません。
うつ病でも健康な人と互角に戦える戦術が必要なのです(表表紙裏)

GTDの特徴の一つに「コンテキスト」という仕組みがあります。
コンテキストとは、直訳すると「文脈」という意味を持つ言葉です。
先に述べた「次に撮るべき物理的行動は、さまざまな状況に応じて「次にできるか否か」が変わってきます。
たとえば、パソコンを使わないとできない作業、自宅でなければできない作業、インターネットに接続できなければできない作業、特定のお店に行かねば買うことができないものなど、それぞれの状況が「コンテキスト」です。逆に言えば、次にやるべき物理的行動がパソコンを使わないとできないものであったとしても、目の前にパソコンがない状況では進めることができないわけです。したがって、それぞれの場面、状況で次にとるべき物理的行動を規定しておくべきであるという仕組みです。
(中略)
しかし、うつ病を患っている私は、おそらくGTDを実践している他の人は作っていないであろう奇妙なコンテキストを作って維持しています。
それは「@うつっぽいとき(仕事用/自宅用)」というコンテキストです。
気分が落ち込んでいないときは普通のことができるので、先に挙げたような一般的なコンテキストで十分なのですが、少しでも気分が落ちると勝手が違ってきます。平たく言うと普通のことを普通におこなえなくなるのです。
しかし、仕事中に一気にうつ病の「底期」まで落ち込むことは稀です。
数日かけて少しずつ歯車が狂って、徐々に落ち込んで、気がついたら底スレスレにいるというのが実感です。
しかし、歯車がずれ始めた際に「どうもうまく進まないな」と感じることはできますので、そこで用意してある「@うつっぽいときコンテキスト」の出番となるわけです(P073)。

さっそく自分も作ってみました。
名付けて「@うつっぽいときリスト」
・歯を磨く
・お風呂に入る
・ホットミルクにシナモン入れて飲む
・ファミコンウォーズDSをやる

うつ病を隠して仕事はできないと覚悟を決める
一緒に働いている人が、表情が乏しい、声が小さい、笑わない、動作が鈍いという特徴を示していたとしても、それを「うつ病」ではないかと連想することはとても難しいことです。この高ストレス社会において、こうした特徴を示す人は、周囲にひとりやふたりいてもおかしくありません。
そしてこうした特徴を示し続けていると、仮にその人がとても有能な人であったとしても、周囲はだんだんとその人を拒絶、もしくは排除するようになり始めかねません。端的にいえば、同僚のストレスの種になり、一緒に働きたくないという雰囲気になってくるものなのです。こうなると、悟られてはいけないというプレッシャーとともに、ギクシャクした雰囲気とも戦わねばならなくなってしまいます。
戦う相手が間違っているのです。戦うべき相手は「うつ病」であって、自分自身でも同僚でもありません。隠し続けることは、自らを苦しい立場に追い詰めることと同じです(P097)。