『メッシュ すべてのビジネスは〈シェア〉になる』

ちなみにFREEの感想はこちら

リサ・ ガンスキー
徳間書店

読後の感想
メッシュ、それは網の目のようなイメージでしょうか。
それまで点と点、個と個を結んでいたものが、情報の伝達(具体的にはインターネット)によって、複数のものと接続できるようになりました。
脳のシナプス結合や網のように見えるため、このビジネスモデルを「メッシュ」と呼ぶようです。

本書はメッシュについて書かれている、といいうよりもむしろ「既存のビジネスがいかに将来がないか」について書かれているように感じました。
しかも、薄い。
いつ本題に入るのかなぁと思ったら、終わっちゃいました(笑)

内容としては、時代が変わるに従って消費者の意識も変わり、もう消費者はメッシュの時代だよ(だからビジネスが今までと同じだったら取り残されちゃうよ)というメッセージが形を変えてありとあらゆる場所に顔を出すので、既存のビジネスモデルに従事している人はちょっと心がせつない気分になることでしょう(というかなりました

というわけでメッシュ。

「フリー」「シェア」の次はメッシュ、と言われているようですが、どちらかというと「シェア」にビジネスの視点を足した(だけ)ような感じの本です。
これから起業しようと思っている人には、アイデアの宝庫かもしれませんが、それ以外の人(僕も含めて)には、危機感を煽る印象が強いような気がします。

例えば、本書の中で触れられているのは、西欧の人々は、すぐにはメッシュにならない(つまり既存の価値観を引きずりながら、メッシュになっていくというくだり。
具体的には手紙→電報→取り次ぎ電話→固定電話→携帯電話みたいな感じ)。
しかし、西欧以外の人々はネットがつながることによって、いきなり携帯電話を持ち始める。つまり、既存の価値観を吹っ飛ばすことによって、メッシュをより使いこなすであろう、と。いやぁ、煽りすぎではないでしょうかね。

ちょいちょいでてくる、ややミスリードなポジショントークはさておきアメリカ(の最先端の様子)はこんな感じなのかなぁと、ある意味のんびり読み進めました。「フリー」は身近だったのに「メッシュ」は今一つ、と感じたのは、自分が直接的にその利益を享受していないからでしょうかね。

あと関係ないけど、ワシントン州にワラワラっていう地名があるのが笑った。
モンテローザの関係者の方におきましては、ぜひ「居酒屋笑笑 ワラワラ店」を計画していただきたいな、と思いましたとさ。

というわけでいまいちでした(本もレビューも)。

印象的なくだり
ニューヨークを憧れの大都会にしてるのは、人々が利用できるシェア・プラットフォームがたくさんあるからだ。公共のものもあれば、民間ビジネスもある。
そもそも電話線、ワイヤレスネットワーク、道路、公園、美術館やニューヨーク名物の消防車だって全部シェア・プラットフォームではないか(P010)。

メッシュ・ビジネスを展開している企業は、モバイルネットワーク、GPSなどの位置検索機能、ウェブとソーシャルネットワークの普及、顧客の購買姿勢の変化、そして歴史的に証明されているシェア・プラットフォームの利点を十分に理解し、賢く利用している(P016)。

基本的に、メッシュはネットワーク対応のシェアリングを基盤に置くーモノやサービスを所有するためではなく、モノやサービスにアクセスする手段を提供するビジネスを指す。戦略の中核は、同じ商品やサービスをいかに多くの回数「売る」か、ということにある(P016)。

サンフランシスコからワシントン州のワラワラに家族とともに引っ越した友人がいる。引っ越すときに、九つのコンテナに家財道具をおさめて倉庫会社に預けた。
引っ越しから数ヶ月後、彼女は私に電話してきて聞いた。「ねえ、前の私の言えに何があったか思い出せる?」。彼女は倉庫に預けた家財道具のほとんどを思い出せないそうで、今新しい言えにあるものだけで十分足りているのだという。結局ワラワラの家に取り寄せた荷物は、コンテナ二つ分だけだった。ついこの間まで大事に思っていたモノが、実は不用品だったということに気づいたのだという(P113)。

レジで支払った金額が必ずしもそのモノの心の価格ではないことにも消費者は気づき始めた。ガソリンをがぶ飲みする車や維持費が膨大にかかる五○○平米の家は、売りに出したときに購入価格を下回る。この五年間で大きな家は、その半分の広さしかなくても太陽光と地熱発電を備え、暖冷房効率を高める素材でつくられたエコ仕様の家と価格面で太刀打ちできなくなった(P117)。

もちろん経済における所有型モデルがすぐさま過去のものになってしまうわけではない。西欧の人々がみんな家を売って修行僧のようにモノを持たない暮らしをするようになるだろう、と私は言っていない。またそうすべきではない。私たちはやはりPC、携帯電話や新しいジーンズを自分で持ちたい。だが、西欧以外の市場では、フィルムを入れるカメラを飛び越えてデジタルカメラを、固定電話を持たずに携帯電話を持つようになった人々が大勢いて、そういう人たちは必要なモノやサービスに簡便にアクセスするための手段の選択肢を私たちより多く持つかもしれない(P118)。

メッシュ・ビジネスの先駆者には、もう一つ考慮しなくてはならないことがある。有形なモノを取り扱うことが多いため、ウェブサイトを変えるようには簡単に取り扱うものに変更を加えられないという点だ(P237)。

最近一五年間に私と仕事をしたことがある人は、もう聞き飽きただろが、私のモットーは「枠を決め、質を高め、規模を拡大する」である。メッシュであろうとなかろうと、どんなビジネスにおいても、まずは市場と、提供するモノの特徴を決定する必要がある。最初は数人の利用者を相手に仕事を始め、それからビジネスの内容やアプローチ法やビジネスモデルを磨いて向上させる。他人が自分のビジネスをどう見ているか、何と比較しているか、商品にどれくらいの価値を見い出しているか(あるいは価値をまったく感じていないか)、どんな改善を求めているかを知る(P238)。

メッシュを利用しようという顧客が気にしているのは、実は価格よりも保険の適用範囲のほうかもしれない(P240)。

『A4 1枚で「いま、やるべきこと」に気づく なかづか日報』

中司 祉岐
経済界

読後の感想
たまたまある人から毎日書く日報が負担でしょうがないという話を聴き、気になっていた日報。多くの人がイヤイヤ書いているであろう日報を、せっかく書くなら活用できるアドバイスの足しになれば、と思い読み始めたのがきっかけでした。

見える化、選択と集中、気付きの記録、手書きによる意識の刷り込み、と書かれてる内容は割とどこでもあるものでしたが、ただ一つこの作者しか出来ないことが書かれていました。

それは、日報の添削。

例示として、幾つ日報が掲載されていたのですが、その中にコンサルタントとして著者が添削(というかコメント)をしているのでず、それが非常に的確かつ優しい。

今まで日報コンサルタントとして、成果をあげてきた、との事でしたが、
実は肝なのは日報よりも著者の中司さんの力では?と思う位でした。
(と、書いてしまうと「日報」本にならないので、その形では売らないだろうけどねw

ともあれ、使い古されたツールである日報を、他人のために、報告のために、から、「自分のために」と再定義して売り出して本にしてしまうあたり、そういった才覚は見習いたいと思いました。

おしまい

印象的なくだり
このころの彼の言葉で印象深いのは、
「日報に数字を書くことで、毎日がクイズみたいになったよ」
ということです。
あけてもくれても数字と向き合っているうちに、彼は数字が語り出す「?」に耳を傾けるようになったのです。もの言わぬ数字から販促策や改善点を探し出し、考えるようになったということで、それを彼は「クイズを解くようだ」と表現したのです。目の前の商売に、楽しみを覚えるようになった証拠でした(P096)。

業績の悪い経営者や営業マンほど数字を敬遠しがちですが、数字を嫌わないでください。数字はあなたに、いちばんいま差し迫った課題を教えてくれる、大きな味方ですから。日報を書き続ければ必ず数字が好きになります(P098)。

行動の「意味」を言えなければ、「行動していない」と同じですよ!(P099)。

私たちの行動には、必ずといってよいほど、改善点があり、同じくらいプラス面があるのです。ただ、それを知るためには、思いつきやひらめきに頼ってはムリです。詳細に、正確に、毎日の行動を書き記し、比較検討するところからしか見出すことはできません(P115)。

お客様を訪ねる際に使う道路状況を調べました。そしたら店を出たら、車はすべて左回りでお客様を訪問できるようにアポをとるようにしたのです。
車で回るときに左回りをすれば、右折の際によくある対向車に邪魔されることがないため、スムーズに移動できます。
実際に動いてみると、この移動は左回りの渦巻き状になりました。面白半分で、「渦巻き大作戦」と名づけたものです。でも、これによってほとんどジュウタン爆撃のように、そのエリア内のお客様を訪問できるようになったのです
(P131)。

ひどい現実でも、知らないよりは知っていたほうがいいに決まってます。現実を知らなければ落ち続けるだけで救いはありませんが、正確に知れば、そのときは痛みを感じるにせよ、快方に向かう手立てがすぐに考えれます(P153)。

それぞれの案件ごとに部門化して、投入すべき人材と経営資源、売上げ目標を部門ごとに細分化しました。その上で、日報では、目標来店数と実際の訪問数、契約率を毎日書かせるよう、項目に加えたのです。なかには、数字まで毎日書かせる意味があるのかと疑問に思う方もいるかもしれません。
しかし、私に言わせると、毎日細かい数字を書くことに意義があるのです。昨日からまったく売上げが上がっていなかったら、昨日と同じ数字を書かざるを得ません。筆が進まないのでしょうが、だからこそ、明日はがんばらなければという気持ちになるのです(P240)。

『オタク学入門』

岡田斗司夫
新潮社

読後の感想
この本を読むまでは(実は)自分はちょっとしたオタクだと思っていましたが、本当はただちょっとだけそっちにかぶれていただけの、サブカルっぽいものが好きな形だけのヤローだったと気付きました・・・、と正直に告白します。

このように自分自身のことに対する見方が変わるほど視点の変換がありました。有り体に言うとパラダイムの変換というか、そんなところ。他にいい表す言葉が見当たりませんが、後頭部をガツンと殴れた感じがしました(いい意味で

具体的には、オタクとはある作品について(もしくは作者とかジャンルとか)に詳しいことを言うのではなく、視点・思想であるという定義についてのお話。つまり「オタク」というのは主義者みたいなものである、ということです。何を見ても、その主義者としての視点から語れるのがオタクであるということは、裏を返せば「何を見てもその視点から語れないとそもそもオタクではない」ということなのです(たぶんね

確かに言われて見れば、確かにマトリックスなどの映画も、攻殻機動隊みたいなアニメも、ももいろクローバーみたいなアイドルも同じ土俵や物差しで語れる、みたいな人を僕はまさにオタクと感じているような気がします(何度も書きますが僕がそう感じているだけです)。

何を見ても同様の視点から見られる、いわゆる定点観測をしていれば、当然目も肥えてくるし、違いにも敏感になります。となると一言申したくなるし、多弁になったりするわけです。

そういう意味では、視決してアニメキャラのTシャツを着て紙袋を持ってリュックをしょっているからオタクではなく、何の話をしても最終的にはガンダムや攻殻機動隊の話になってしまう人(目標)もやっぱりオタクなんだなぁ、としみじみ思いました、よかった。

ちなみにこの本を読むと、ルパンとかエヴァンゲリオンが激しく見たくなります。僕もカリオストロの城を見直してしまいました(そして作者の言いたいことが本当によく分かりました)。

印象的なくだり
アニメだけが好きな人間は単なるファン又はマニアでしかない。単独のジャンルだけに興味を持つ、というのはオタク的な価値から大きく外れている
(中略)
オタクなセンスというのは、たとえば「アメリカンウェイ」とか「フェミニズム」「エコロジー」みたいなもんで一種の価値観・世界観だといえる。たとえばエコロジーを例に考えてみよう。
正しいエコロジストの在り方は「環境保全・保護」というコンセプトにそって自分の行動を決めることだ。「クジラを殺すな!」なんてステッカーを貼ったスポーツカーに乗って、排気ガスをまき散らして暮らす、なんてのはエコロジストではない。そいつはただ単なる「クジラ好き」だ。
自然保護・環境保全・代替エネルギーの立案・リサイクル・非大量消費社会への動き。正しいエコロジストのやるべきことは山のようにある。
これと同じく、アニメしか見ないオタクはタダのアニメファンだ。クジラのことしか考えない人がエコロジストではないのと同じである。アニメを考え、それを深く追求すればするほど、他のオタクジャンルに無関心でいられるはずがない。
確かにアニメはオタキズムのホームグラウンドだ。けど、ゲームにも特撮にも洋画にもマンガにもオタク度の高い作品はいっぱいある。で、実はそういった作品は互いにものすごく影響を与えあっている。それをジャンルクロスして見抜き、楽しむのが「オタク的な見方」なのだ(P042)。

つまり抽象化というのは要するにデフォルメと省略のことだ。自分の印象深いものをデフォルメする。その他の部分は省略、もしくは縮小する。どこをどのくらいデフォルメするか、それが画家のセンスだ。と同時にそのイメージ通りに描くには当然鍛えぬかれた技術が必要なのだ(P141)。

どんな国の映画界にも「戦意高揚映画」、つまり「戦争ってかっこいいなぁ映画」はある。とりわけ熱心だったのはアメリカで、ウォルト・ディズニー・プロだって戦争中はえげつないアニメを山ほど作っていた。アメリカの陸・海軍もそういった映画には全面的に協力した。撮影のために本物の飛行機や戦車をバンバン動かしてくれたのだ。
けれど、アメリカと違い、日本軍部は映画のために戦闘機や戦艦を動かしたりしてくれなかった。それどころか、資料や写真も借りられない。機密保持の方針が厳しかったからだ。
仕方なくミニチュアの飛行機をワイヤーで吊って飛ばし、でっかいプールに模型の戦艦を浮かべた。本来ロケに使う予算で贅沢な特撮セットを組んだわけだ。
そのとき作ったプールや培ったミニチュアの技術、スタジオ等が戦後の怪獣ブームの基礎となった。逆に、アメリカは軍からもらう実写フィルムや軍の飛行機を実際に飛ばしてもらう手法ばかりに頼っていたため、特撮技術は少しも進歩しなかったのだ(P162)。

メインカルチャーの子供観
メインカルチャーとはおおざっぱにいうと、アート、文学、科学、歴史、クラシック音楽といったアカデミックかつクラシックなもの。もっと平たくいうと大学で昔から研究してきたようなもののことである。
彼女たちが所属しているヨーロッパ文化圏では、メインカルチャーを身につけるのが当たり前である。それも出来ない人は「クラスが低い」とされてしまう。いまだ階級社会の色合いを強く残しているヨーロッパでは、「メインカルチャーを身につけず、自ら階級を下げる」なんてことは半分自殺行為のようなものだ。
で、そんな社会でも「子供のための文化」は存在する。ただし、これは「子供が楽しむため」のものではなく、「子供をちゃんとしうた大人に教育するため」の文化だ。「ちゃんとした大人」とは、「自我を確立した市民」という意味。わかりにくければ、「メアリーポピンズ」や「ピーター・パン」に出てくる父親のように、銀行員や実業家、役人といった「立派な人たち=階級社会の市民」と考えてもらっていい。
アカデミックな教養があって、社会的信用も高い立派な大人。子供はみんなこういう立派な大人・市民になるべきだ、というのがメインカルチャーな考え方だ。そのための教育を目的として与えられるのが子供文化だ。
現在、日本でも若いおかあさんたちに人気の高いヨーロッパの知育玩具といったものは、、みんなそのポリシーで作られている。レゴやパズルなど、日本でもメジャーなおもちゃはもともとすべてそういう目的で作られたものなのだ。
この子供文化に対する考え方は、一見当たり前のようの聞こえるが、実は日本人の考え方と全然違う。ヨーロッパでは、子供にそういった安全で教育的なもの「しか」与えないのだ。テレビ番組を自分で選ばせるとか、テレビゲームを次々と買い与える、といったことは一切ないのが本来のメインカルチャーな考え方なのだ。「子供文化」とは子供たちが作る文化ではなく、「大人が与えるべき文化」でしかありえない。
そういった価値観からとらえると、日本のアニメはもちろん子供の教育のための文化に入るわけはない。教育的な要素がないどころか、人を殴ったり下品だったりで反教育的な要素がたっぷり含まれている。それを見続けることによってアートや音楽に関しての見識も深まったりしない。合格ラインの作品などゼロだ。
こういったものを子供に与えるなんて考えられないというのがヨーロッパのメインカルチャーの方々の考え方だ。こういった人たちにとって、日本のアニメは「サブカルチャー」に見える。大人に反抗する文化「カウンターカルチャー」、立派な大人になりきれないオチこぼれの若者が作る文化、「サブカルチャー」。
だから、ちゃんとした大人と自分をとらえている人たちは日本アニメを相手にしない。子供たちをちゃんとしたメインカルチャーに導いてあげるのが、大人の義務と責任だから(P341)。

日本文化では、粋を理解する客がいなければ文化は成立しえない。現在、古典落語が滅びつつあるのも、落語の世界の約束事を理解する客が減ってしまったためだといえる。
どんなに世界を守って趣向を凝らしても、そこのところをわかってもらえなければ仕方がない。どう趣向を凝らせばおもしろいかわからなくなってしまう。仕方なく、趣向なしでいつも同じ演出になっていく。そのため、ますますお客が減っていく、という悪循環が起きているのだ(P355)。

オタクというのは、作品論ではない。何をどう見るか、という視点の問題なのだ(P375)。

『リーダーシップ』

『リーダーシップ 新装版―アメリカ海軍士官候補生読本』

アメリカ海軍協会
生産性出版

読後の感想
昔から「平家、海軍、国際派」というように、海軍は進歩的な存在の象徴だったりします。
それは、常に船の性能が生死を左右するような技術戦であることや
海洋はつながっているので国際的な決まり(万国公法とか)に従うためや
相手のことを学ぶために、言語を習得する(必然的に海外を知る)理由があったからではないでしょうか。
この本はアメリカ海軍の士官候補生に向けて書かれています。
その性質上、士官候補生は配属と同時にいわゆる指揮官として配属されることが多くて、
たたき上げの人からするといきなり年下の上官が来たりして、
それはそれで心中穏やかではなかったりするわけです
(この辺の悲哀は「きけ、わだつみの声」などをご参照のこと)。

というわけでリーダーシップの本です。
優秀なリーダーの下では生き残ることができるのに、
そうでないリーダーの下では全滅、なんてことがありがちな軍隊で書かれただけあって、
生死をかけたリーダーシップ論に背筋を張りながら読むことができました。
部下にとって上官が生死の鍵を握っているのと同様に、
上官にとっても部下の動きは生命線なわけです。
そのような場面ではリーダーシップが取れること自体が、
命を懸けたミッションだったという部分で、
今のぬるい自分の立場に身に沁みました。

印象的なくだり
リーダーシップの定義
リーダーシップとは、「一人の人間がほかの人間の心からの服従、信頼、尊敬、忠実な協力を得るようなやり方で、人間の思考、計画、行為を指揮できかつそのような特権をもてるようになる技術、科学、ないし天分」と定義されよう。
これをテキスト全体の定義とするので、よく脳裡に銘記されたい。この定義は、リーダーシップの実践が科学的アプローチの具体化であるという近代的概念を包含し、リーダーシップを生まれながらのリーダーの技術や天分とする狭い考え方に拘束されない(P003)。

有機体の生存における意識の効果を科学的に研究することは、十分価値のあることとダーウィンは考えた。自己分析をしてみると、運動技能を学習しようとする場合、最初は自分の行動をはっきりと意識しているが、習慣が完全になるにつれて、意識は遠ざかっていく。そして習慣が確立されてしまうと、意識せずに自動的に手足が動いていく。したがって意識は、人間の学習を助けることで有機体としての人間の存在に貢献するように思われたのである(P026)。

科学者は、誤った解答に騙されないように注意しており、その顕著な態度の一つとして理性的もしくは健全な懐疑主義があげられる。これは、ものごとを信じる場合に、十分な根拠が存在するまで疑いの余地を残しておくという態度であり、問題に対する解答を探求する過程がもっとも重要であるという態度である。
(中略)
つまり、懐疑的な態度というのは、日常の問題に対して、安易な既成の解答ではなく、よい解答を得るための第一歩なのである(P035)。

科学者は、かならずしも多くのことを知っている人ではなく、むしろ多くの問いをする人と言ったほうがよい。反対に、平均的な人のほうが、多くのこと、とくに「人間性」について「知っている」と思っているかもしれない。家族の影響、教育、個人的経験、これらのすべてのことが、人生や生きるべき道について、「普遍的真理」と見なされている解答を理解させる際に、影響するのである。科学者はどちらかといえば、この種の普遍的真理については健全な懐疑心を身につけており、まったく普遍的ではないものがあることもすでに学んでいる。また、容易に手に入る既成の解答の多くが、厳密な分析に耐えられないことも知っている(P036)。

現代文明における人間の基本的特徴の一つは、解答を得たいという欲求である。個々の人間は、一つの解答は百のよき問題に値するという思いを強めながら成長する。そして、問題に直面した場合、解答が得られないと、何となく不十分な気持を抱くのである。大いに当惑したあげく、よい解答への努力を惜しんで、安易な解答に満足してしまうことも少なくない。しかし、これは時として、きわめて不幸なことになる。なぜならば、いったん解答が得られると、善かれ悪しかれ、解答を主観的に防御しようという気持が強まり、ある人個有の解答となって、問題の解答にならないだけでなく、解答に対するいかなる攻撃も一人で受け止めなければならないからである。自我が解答に投影されており、解答を支持するような事実だけで、自我を守ろうとするのである(P044)。

よい士官は、よい観察者となるにあたって、大いに勉強になるのは、科学者の例に倣うことである。科学者は関心をもつ必要のある重要なことがらを選別するコツを身につけている。何を検討するかがわかるようになるには、素地となる知識がなければならない(P045)。

生命は過程である。万物は絶えず流転し、相互作用し、変化している。もみじの日々の移り変わりとか、昨日と今日の年齢の違いなど、変化といっても実際にはほとんど意味がない小さなものもある。それでも、変化は絶えず行われている。実際に重要な変化が表面化するのに一か月、一年、ときには一○年も待たなければならないこともあるかもしれない。それでも変化は起こるのであり、昨日が今日とまったく同じように、また一九二○年が一九六○年と同じように行動するような人は、新たな異なる方向の問題に対しても、古色蒼然とした解答を与えるに違いない(P047)。

集団は、成員のすべてが集団と強く同一化するとき、きわめて強い潜勢力をもつものである。成員はすべて熱心に仕事に取りかかり、一生懸命努力し、仕事をなし遂げ、目標を立派に達成するのである(P066)。

紳士としての海軍士官
しばしば「士官と紳士とは議会の法令による」という表現を耳にする。実際においては、「士官」および「紳士」という言葉は、同義語である。「紳士」という言葉が非常に多く出てくるから、その意味を、海軍士官の役割に関連づけて検討するものも有益であろう。
ある無名の著者が次のような素晴らしい紳士の定義を下している。
内も外も清潔な人、富める者をあがめず、貧しい者を見くださない人、負けて悲鳴をあげず、勝って自慢しない人、他人に思いやりがある人、大胆で偽らず、寛大で欺かず、分別があって、のらくらして遊ばない人、世の中の財貨のうちの自分の分け前だけを取り、他人にその分け前をもたせる人ーこれこそ本当の紳士である(P117)。

漢字とひらがな

ボツネタ経由

日頃から漢字とひらがなの混合はかっこ悪いと思っていたのだが(そして使っていませんが)、
きちんと「用いない」ようにする方向で明示されたのでよかった。

にしても、この漢字→ひらがなにする一覧で

・但書→ただし書き

というのはどうも納得がいかない。なんか間抜けな感じ。

その中でも「(5)常用漢字表にない漢字で表記する言葉及び
常用漢字表にない漢字の構成要素として表記すると理解することが
困難であると認められるようなものについては、
その漢字をそのまま用いてこれに振り仮名を付ける。」とあるのだが、例を見ると。

暗渠 按分 蛾 瑕疵 管渠 涵養 強姦 砒素 埠頭

第一印象。蛾(が)って法律用語だったのか…

どのような法律で登場するのか分かりませんが、ご存知の方がいればご教授下さい(ググっても出てきませんでした)

仕事の関係でいうと、瑕疵(かし)が使えなくなるのは困るのでよかった。
瑕疵担保責任と書くときに「かし担保責任」ではどうもしっくりこないし、
幼稚な感じがしませんか?
なんとなくいいお菓子(マロングラッセとか)で損害賠償をしたりとかね。

以下、これからは漢字として用いないもの、と一言。

違背(いはい)は「用いない」

→違反を用いる。

違背のほうが、破った感があってよかったのに。

汚穢(おわい)は「用いない」。

きっと読めない人が多かったからであろう。
漢字から意味が推測できてよかったのに。
何の法律にあるかは不明だけど。

牙保(がほ)は「用いない」。

刑法が変わって、有償処分あっせんになったから使う人がいなくなったんだろうね。

覊束(きそく)は「用いない」


覊束裁量は法規裁量になるのだろうか。

欺罔(ぎもう)は「用いない」。

詐欺の欺罔行為はなんというのかな?

懈怠(かいたい・けたい)は「用いない」。

会社法423条はどうなるのでしょうか。

齟齬(そご)は「用いない」。

画数が多いから?

捺印(なついん)は「用いない」。

→押印を用いる。

見てて思ったのが、確かに分かりづらい用語・漢字ではあるんだけど、
表意文字である漢字を使うことによって、
読めなくても意味はおおよそ分かっていたのに、
ひらがなや簡単な文字にすることよって、
意味がぶれてしまうのではないのかなぁと心配しています。
(それによって定義までがずれてしまうのが一番怖い)