急に発言を求められた場合の対処方法(個人的備忘録)

そんなつもりではなかったのに急に発言を求められた場合の対処法

先日とある会議に、参加者としてでない形で出席した際に
いきなり「ちょっとだけあいさつを」と発言を求められてしまいました。

ちょっと急だったので、もにゃもにゃした挨拶になってしまいましたが
実際にはもうちょっときちんと話したかったなぁと思いだしています。
(きっと聴いている人たちは印象に残ってないだろうけどね、
話をしたほうは結構ズルズルと引きずってしまうものです)

いつも思うことは
・知らないことを言うよりも知っていることをさらっと話した方がいい
・相手に合わせて発言しようとするとうまくいかないし
却って訳の分からないことを発言してしまう結果になってしまいます(しまいました)

そんなわけでふとんジタバタする毎日ですが
野口先生のフレームワークを参考に自分なりに作り変えてみました。

フレームワーク
1.皆さんこんにちは。○○です(姓名を名乗る)
2.話す機会をいただき、光栄です
3.主催者に礼。幹事へのねぎらい
4.「○○には特別の関心がある」云々
5.よろしくお願いいたします。

反省しないといけないことだらけだなぁ、毎日。

どっとはらい。

『ドラッカーを読んだら会社が変わった』

『ドラッカーを読んだら会社が変わった』
佐藤 等

読後の感想
実際の経営者がドラッカー本を読んで、経営に生かしたらこうなりました、という事例集。
いわゆる「もしドラ」のノンフィクション版ですね(笑

本書を読むとよく分かるのですが、事例は中小企業の問題点の発見に偏在しています。
特に、代替わりした後継者が経験なくて問題点が分からん、というケースが多いように読み解きました。

私たちは皆、長所と短所、強みと弱みという言葉を知っています。
しかし自分のことでも、他人のことでも、長所に目が向く人は少数派です。
まして自分自身や部下、同僚の長所を明確に認識し、仕事に生かしている人はほとんどいません。
むしろ欠点に目が行きがちです。
なぜなら、強みは無意識のうちに生かされているからです。
本人は自然にできてしまうので、あえて意識して活用する人はあまりいません。
逆に、弱みの方は、失敗やミスなどの手痛い経験の記憶と共に強く自覚されますし、周囲からも目につきやすいものです(P.167)。

問題点が分からないときに必ず有効なのが、目的や大原則に戻るというものです。
従業員個人レベルでいうと「なぜ働くか」とか「クレド」と呼ばれるもので、組織では何かということですね。

人生においてお金が目的ではないのと同様に、企業経営において利益は目的でない(P.076)。

↓は自分の部下にも話してみようと思いました。

上司が「部下を駒にしない」と決意しても、当の部下が「駒でいたい」という態度を示すことがあります。
突然、自らの判断で行動することを求められても困惑します。
最初は、部下の相談に乗る必要があります。
その際に「代わりに考えてあげる」のでなく、「一緒に考える」。
本人の意見や希望を聞き、不安に感じたり、知識やスキルの不足を感じたりする部分をサポートします。
その際、部下が個人的に「何に挑戦したいか」を知っていると、効果があがりやすいはずです。
もう1つ、ぜひ試してほしいことがあります。
部下に、「自分の役割は何だと思っているか」を尋ねて下さい。
自分が「したい」ことを答える人もいれば、職場の空気を読んで「すべき」と思うことを答える人もいます。
いずれにせよ、上司にとっては思いがけない回答がほとんどです(P.150)。

印象的なくだり

ドラッカー教授は、「マネジメントとは実践である。その本質は知ることではなく、行うことにある」(『マネジメント[上])と言います。
つまりマネジメントは「理解」の対象ではなく、「実践」の対象だということです。道具として使うためのものです。
世に経営学の著作はあまたありますが、本当の意味でマネジメントを教えられる本など存在しません。本当の意味でのマネジメントを教えてくれる先生もいません。
その理由は、ドラッカー教授も指摘する通り、「成果をあげることは学ぶことはできるが教わることはできない」(『経営者の条件』)からです。
この原理原則は、特にマネジメントの能力について、よく当てはまります。
組織をマネジメントできる能力とは、自転車に乗れることや泳げることに似ています。座学だけで勉強して、自転車に乗れるようになったり、泳げるようになったりした人がいないように、座学だけでマネジメント能力を身につけることは不可能です(P.007)。

ほとんどあらゆる組織にとって、もっとも重要な情報は、顧客ではなく非顧客(ノンカスタマー)についてのものである(『ネクスト・ソサエティ』)(P.025)。

コスト削減より、活動削減
「成果をあげる者は、新しい活動を始める前に必ず古い活動を捨てる」(『経営者の条件』)
「古い活動を捨てる」とは、何かをやめること。小さなところでは、ダイレクトメールや定例会議の廃止など。大きなところでは、製品の生産中止や事業撤退。いずれも一見、消極的な活動に思えるかもしれません。
しかしその本質は、古い活動に拘束されていた経営資源の解放です(P.041)。

「顧客にとっての関心は、自分にとっての価値、欲求、実現である」(『マネジメント[上])
この言葉は、「現実→欲求→価値」という順番で考えると使いやすい道具になると思います(P.092)。

総務財務部の矢野美保部長は、セミナーを受けた後、事務方を担う部署のスタッフ全員に「時間の記録」をさせたいと社長に申し出た。
1日の業務時間のうち、どんな仕事にどれだけの時間を使ったかを、逐一記録させたいという。
この提案はドラッカーに基づく。
ドラッカーは、『経営者の条件』に、「汝の時間を知れ」と題した1章を設け、時間管理の重要性を説いている。
さらに時間管理の前提として、「時間の記録」をすることを強く勧める(P.108)。

Nさんに伝えたい言葉。

「時間管理は、『PDCA』でなく『CAPD』で取り組むべき」と、高塚氏は考える。
ビジネスでは「計画(PLAN)」を「実行(DO)」し、その結果を「検証(CHECK)」して、「カイゼン(ACTION)」するという「PDCAサイクル」が重要だと、よく説かれる。
だが「夢のような『計画』を立てても役立たない。まず現状を『検証』し、どこに『カイゼン』の余地があるかを知ってこそ、いい『計画』が立てられる。だからこそ、ドラッカー教授は『時間を記録せよ』と、しつこく説いたのだろう」(P.128)。

『この世界の片隅に』

『この世界の片隅に』
監督 片渕須直
脚本 片渕須直
原作 こうの史代
製作総指揮 丸山正雄
真木太郎(GENCO)
出演者
のん
細谷佳正
稲葉菜月
小野大輔
潘めぐみ
岩井七世

あらすじ

18歳のすずさんに、突然縁談がもちあがる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・北條周作の妻となったすずさんの日々が始まった。

夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。

ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡洋艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。

1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。

鑑賞のきっかけ
たまむすびの町山さんの映画評を聞いて。
レビューは2作目(2017年)、通算29作目。

鑑賞後の感想
なかなか感想を書く、という作業に着手できない、そんな映画でした。
喜怒哀楽のどれにも該当しない感情で胸がいっぱいになってしまったのでした。
いわゆる「戦争は悪だ」的なステレオタイプではない、素のままの感情です。

本作品は戦争中の国内の生活(いわゆる内地)をありのままに描いています。
配給制となる食生活、灯火管制の毎日、出征する兵士を見送る町内、と
どれもこれもほかの作品では当たり前の風景でした。

絵を書くことが好きで得意だった素朴な主人公の女の子すずさんから、
戦争の被害が大きくなるにつれて、笑顔が消えていきます。
特に義父圓太郎の見舞いに行った帰りに空襲に遭った1945年6月22日を境に
ぷっつりと笑顔がなくなってしまうのです。

映画を見ていて意識しないまま1945年の8月6日を頭に浮かべていました。
映画の左上に日付が出るのですが、どんどん8月につれてドキドキしてくるのです。
1945年の初頭に、ナレーションで「その冬は特に寒くて、春が待ち遠しかったのです」と
流れた時、本当に心が痛かったです。
そして、8月6日は実家のある広島市のお祭りだから里帰りしたら?と妹に声を掛けられたとき
「行っちゃだめ~」と心の底から必死でで思ってしまっていました。
それくらいのめり込んで見てしまった映画でした。

映像で言うと、ところどころに差し込まれる虫のカットが、人間のことを暗喩しているようでした。
蟻が行列しているシーンと人間が配給の行列を待つシーン
カブトムシが木の蜜を吸うシーンと砂糖さえ貴重に使う人間たち
他にもトンボやチョウがふわふわと楽しげに飛び回るのに対して人間は殺し合いをしているという
(正確には一方的に殺されているということか)。

とにかく今までの戦争映画とはまったく別の視点と尺度で描かれた映画です。
本当にたくさんの人に見てほしいし、この映画がちゃんと話題になるところが
まだまだ日本も捨てたものではないのかもしれないと思いました。

個人的にすずさんの右手と実母のことがかぶってとても辛い作品でした。
コミック版も購入しましたが、非常に実験的な手法でも書かれており、攻めてる作品です。

5点満点中5点です、文句なし。

年齢を理由に諦めない

新年なので毎年恒例の「やりたいことリスト100」を作っています。
ところが、頭の中で「●●やりたいな」と思っても、もう遅いかも、と思ってしまうことがあるのです。

年齢を理由に挑戦することをやめようとする時に必ず伊能忠敬のことを思い出します。
江戸時代、初めて日本地図を歩いて測量した伊能忠敬ですが、測量の道に入ったのは50歳の時です。
50歳の時に31歳の師匠に弟子入りをして、初めて測量をしたのが55歳。
そして73歳で亡くなるまでほぼ測量一筋で、全国をくまなく歩き地図を完成させています。

もちろん何かを始めるのに早いに越したことはありません。
そりゃあ、50歳で始めるよりも15歳で始めたほうが、上達も早いし、大成する可能性は高いでしょう。

しかし、だからといって50歳で始めてはいけない理由にはならないはずです。
それに、人生でいえばその日が一番若いはずです。

先ほどの伊能忠敬の例で言うと、ひたむきに測量を続けていく途中から、測量自体が幕府からバックアップされるようになり、協力が得られるようになりました。
一行が測量に向かうと、地元の役人が「事前手配書」と称して、宿泊先を確保したり人足を用意したりとかいがいしく務めていたようです。
(どうやら見返りに地図を求めていたようにしたたかでもあるそうですが)

まぁ、何かを始めるにしても遅すぎることはないし、続けていれば拾う神もあろうかと思います。

どっとはらい

『きっと、うまくいく』

『きっと、うまくいく』

インドの映画
きっと、うまくいく
3 Idiots

監督
ラージクマール・ヒラーニ
脚本
ラージクマール・ヒラーニ
ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー
アビジット・ジョーシ
原作
Chetan Bhagat
『Five Point Someone』

出演者
アーミル・カーン(ランチョー)
R・マドハヴァン(ファラン・クレイシー・狂言回し)
シャルマン・ジョシ(ラージュー・ラストーギー)
ボーマン・イラニ(ピア・サハスラブッデー)

あらすじ
舞台はインド。
10年前にICE工科大学の寮でD26号室で同室だったランチュー、ファルハーン、ラージュー。
しかし、卒業を期に、ランチューだけが連絡がとれなくなってしまっていました。
三人はいわゆる三バカトリオと呼ばれて、大学長から目を付けられていました。

鑑賞のきっかけ
レンタルビデオショップの店頭で見て気になっており、「見たい映画リスト」の中に入っていました。
友人のEさんのフェイスブックを見て見ようと決意しました。
レビューは1作目(2017年)、通算28作目。

鑑賞後の感想
インド映画の基本は、全部詰め込み型。
喜怒哀楽から、シリアス、恋愛、感動と170分の映画に全部まとめて入っていました。そんな映画。

インド映画らしく途中でミュージカルのように全員で歌い踊り出すシーンもあり、アニメーションで比喩したり、白黒映画にしてラージューの貧しい家庭を表現するなど、演出方法が実験的で挑戦的でした。こういうの好きだし、惹かれるんだよなぁ。

この映画は、友情と成長が表のテーマだとすると、裏のテーマはインドの抱えている教育に対する矛盾と、個への抑圧の解放があるのではないかと思います。
主人公のランチューもある意味インドの伝統的な身分制度の犠牲者でもあり、ファラーンは家父長に反抗できず抑圧されている、ラージューに至っては期待に押しつぶされる若者の典型でした(明確に書かれていないけど、ラージューの家はカーストの下の方っぽい)。

そして、ランチューと知り合い友情をはぐくみあうことによって、ファラーンとラージューはランチュー考え方の影響を受け成長し、周囲の問題を乗り越えていきます。
ところが、ランチューに課せられた問題は実は触れないまま進んでいくのでした。

ランチューの持っている真の問題の重大さをひも解くために映画の大半の舞台は10年前にさかのぼります。
(余談ですが、この映画は10年前と現在を行ったりきたりするのですが、現代の問題を解決するために過去に戻るところは、クロノトリガーと一緒ですね)

10年前の三人の物語には、大学生時代の三人の友情、学長との確執、学長の娘とランチョーとのラブロマンス、両親との和解など、青春友情映画にありがちな要素満載でしたが、一つ大きく特徴的な内容がありました。

それは「若者の自殺」です。

物語中、幾人もの若者が自ら命を絶つ(絶とうとする)シーンがあります。それは、インドの強烈な競争社会のひずみなのです。
学長は学生に向かってアジります「人生は競争だ」と。
物語の舞台であるインドは、まだまだ家父長制が強い国です。
子供は生まれたときから父親からエンジニアになるように進路を決められて、家族の収入の大半をつぎ込まれて期待されるのです。
当然全員がその期待通りにいける訳ではなく、途中でドロップアウトするものも出てきます。ところが、過剰な期待に押しつぶされて途中で自殺する(I QUITと書き残して)のが社会問題となっているようです。
ICE工科大学は40万人に対して200人という超狭き門。その中に入れたあともまた競争・競争に次ぐ毎日。
主人公のランチューはそんな社会構造のあり方に疑問を持ち、独自のやり方で既存の仕組みに対して反抗していくのです(でも、その割には既存の試験では優秀な成績を取るという、完全無欠型です)。

映画の構成もすばらしく、まずは現在のファラーンとラージュー(そしてイヤな奴役のチャトゥル)が、連絡が取れなくなったランチューを探すシーンから始まります。
そして、狂言回し役のファラーンの回想シーンに進み、彼らの出会い・友情の熟成・それぞれの成長と別れに話が進むにつれて、ランチューに近づいていくという組み立て型も本当に分かりやすかったです(まさにランチュー導師の教えの通り)
終盤への複線もあちこちにあって、それを回収しつつラストシーンにたどり着く構成は本当に見事でした。

小さいネタでいうと、「ミリ坊や」が成長して「センチ」になったり、飼い犬たちが「キロバイト」「メガバイト」「ギガバイト」だけど、「バイト(噛む)」しないよ、とか、分かる人だけクスリと笑えるシーンがたくさんありました。
ただ、ランチューの本名のランチョルダース・シャマルダース・チャンチャルが変な名前というのはいまいちピンと来なかったですね。

ちょっと長いけど、若者たちの成長する姿を見ていて心がすっとする映画です。

5点満点中5点です、おすすめです。