ドラゴン桜(4)

印象的なくだり
“人間は忘れる”のだ。
人間が忘れるのは当たり前のこと。
生存のため必要なもの以外は忘れるようにできているからだ。
だからまず受験勉強を始める前は「忘れるのは当然」。
こういう前提に立つことが大事(39限目)

主観面をどうやって推認するか

 最近見た記事

 女優の一色紗英(30)が、車の運転中に携帯電話を使用したとして警視庁の白バイ警官に取り締まりを受けていたことが8日、分かった。警視庁交通機動隊が反則切符を交付したところ、一色は「かかってきた電話に出ただけなので自分は悪くない」と反則切符への署名を拒否したという。また、一色はここ3年間で少なくとも10件の交通違反を繰り返し、2度の免許停止処分を受けていたことも明らかになった。
 ◇  ◇
 スピード違反に駐車違反、シートベルト着用義務違反…そして、運転中の携帯電話使用。過去、3年間で少なくとも10件の道交法違反を繰り返していたとなれば、運転モラルを問われても仕方がない。
 調べでは、一色は5日午後2時50分ごろ、東京・渋谷区の路上で乗用車の運転中に携帯電話を使用したとして交通機動隊の取り締まりを受けた。その際、一色は「かかってきた電話に出ただけなので自分は悪くない」と反則切符への署名を拒み、結局、署名しなかった。
 所属事務所は「助手席にいた一色の娘が着信した電話を取り、一色に渡したところを機動隊に見られた」と説明。さらに過去3年間で少なくとも10件の交通違反を犯し、累積減点で2度の免許停止処分を受けていることを認め、「本人も過去の違反を認めている。今は『二度と迷惑をかけないようにする。お騒がせしてすいませんでした』と深く反省しています」とコメントした。

引用元

 最近ジュリストかなにかで読んだ、刑事裁判についての裁判官の論文。

 本人の主観面というのは、他人が見て分からないから(神様じゃない限りね)どうするかというと、客観的な事実を積み重ねて推察するしかない、と。
 事実に対しての評価はそれぞれかもしれないけど、事実の存在は誰から見ても明らかだからね。

 過去三年間で(見つかってるだけで)十件の違反と回数も多い。内容もシートベルト着用義務違反や駐車禁止など、法を守ろうと思いさえすれば簡単に守れるような違反。何度も見つかって注意されているのにもかかわらず、違反である事実を認識していながら、それを敢えて破っているという事実からいうと、主観はかなり悪質だよね。

 これだけ大きい記事になって、事の重大さに気づいたのかもしれないけど、はっきりいって、この人は今まで反省していなかったと思う。

 これをきっかけに考えを改めて欲しいなと思う。

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大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然

 「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」なんて時代はとっくに過ぎて、今や大家さんの顔すら知らないのも珍しくなくなってきましたが(挨拶

 まことに私見ですが、建物住居なんてもんは、借りるまでは大家さんが強いのですが、借りてしまえば圧倒的に店子が強いです。といっても、一般的な場合ではなく特殊事例。
 家賃も払わずに、住み続けられた場合、不動産屋としては結構(いや、かなり)困ります。そういった意味で店子が強い。

本題。

 家賃保証とか一括借り上げとかのお話。
 土地が右肩上がりの頃、大東建託など大きい企業なんかが、よくお話を持ってきていたそうですが、土地持ちのおうちに営業マンがやってきて、ばら色の収支計画のお話をしたそうです。
 いわく、マンションなんか建てて、家賃収入でウハウハ、仮に入居者がいなくても、共済会なんて組合に毎月家賃の数バーセント会費として支払えば、毎月の家賃の九割くらいは保証しますよ、と。

 ところが、一昨年四月施行の改正貸金業法で、この家賃保証の制度の「賃料保証事業」が保険業に該当することになったらしい。まぁ、冷静に考えれば、家賃保証は保険そのものなんだけど。

 というわけで、共済会は解散、大東建託の場合、子会社が引き継ぐことに。

 そして家賃保証ができなくなったから、次に出てきたのが一括借り上げという仕組み(本当は結構前からあったけど)。子会社と所有者の間で賃貸借契約を結び、全部子会社が借りてくれることになる。そして、入居者と子会社とで転貸借契約を結ぶということ。

 じゃあ、部屋が空室でも、所有者は家賃が保証されて万々歳じゃないかとなるかと、さにあらず。

 この話の肝は「賃料が大東建託(の子会社の)言い値」だということ。しかも、特約に大東建託側に有利な条項が目白押しだという。

 こういった形を取る建物は、主に単身者用の建物。はっきりいって、今後人口が減るのは確実なので、ターゲットの大学生・社会人の単身向けの建物は供給過多になるでしょう。
 今後、この手の契約がどうなるのか、他人事ながら心配ではあります。

遅れてきた痛み

 軽くランニングしてきました…と書いたのが、三日前。
 当日の夜、既に軽く熱を持つくらいでやっぱり運動不足だなぁとしみじみ実感。

 翌日、張ってるくらいの筋肉痛アリ。これが「超回復」ってやつだよなぁと、持続する決意をしたのが昨日。

 って、今日。また軽い痛みが…あれ?

 痛みを避けるために(いつもとは違って)不自然な筋肉の使い方をしていたからだろうか。太ももの辺りがジンワリと張っているのですが、思い当たる節はなし。寝る前に少しもみしだいてみます。

 にんにん。

『「超」整理日誌 地動説を疑う』

ダイヤモンド社
野口 悠紀雄

読後の感想
 サブタイトルの『地動説を疑う』に書かれたとおり、今まで常識だと思っていたことは本当に常識なのか、本当に理解しているのか、という視点を強く意識させられる本です。

 Ⅰ部の「常識に対する疑いが社会を前進させる」というのはまさにその通りだと思いました。「あるべきものがない」というのは意識しても、気づくのは難しいでしょう。

 難しい事象も身近な具体例に置き換えて書かれており、分かり易さを非常に意識しているのが、読み取れます。良書だと思います。

印象的なくだり

本の「積ん読」は、一般にはよくないこととされる。だが、私は、大変意味があると考えている。
自分の蔵書なら「自分の側」にあると感じられるから、本のほうから近づいてくる。
そして、いつかは読めて、本当に「自分の本」になる。

五年も一〇年ものあいだずっと積んでおいた本を、何かのきっかけで読了し、自分のものとしたことも多い。
これに対して、書店や図書館にある本は、なかなか読めない。いつになって、「あちら側」のままだ。
だから、読みたいと思った本は、迷わず買うべきだ(P020)。

分からなければ、聞けばよい。実際、質問できるのは、自信の表れなのである(P030)。

内容を本当によく知っている人は、分かりやすい言葉で説明するものだ。
アルファベット略語を振り回すのは、理解していないことの証拠と考えて、まず間違いない(P031)。

固定観念とは、ある刺激に対して常に同じ反応をすることである。
刺激に対する最適反応をいちいち考えていたのでは緊急事態に対処できないし、思考作業のムダだから、こうした短絡的・画一的行動様式が一定の合理性を持っていることは間違いない。しかし、それしかできないのであれば、昆虫と同じである(P055)。

「情報」については、必要性の判断が非常に難しい。そして、不要なものを大量に抱え込む危険が大きい。
しかも、情報は、「多ければ多いほどよい」というわけではない。重要な情報が過剰な情報のなかに紛れてしまって分からなくなってしまうということもある(P062)。

地上デジタル・テレビ放送について
何より最大の疑問は、「ハイビジョンの画像やCD並の音声」にふさわしい、充実した内容が提供されるのだろうか?ということだ。
現在とあまり変わらぬ内容であれば、情報量が多くなっただけアラが目立つだけではなかろうか?
「髪の毛一本ずつ見分けられる鮮明画像」というが、タレントが馬鹿騒ぎするだけの番組で髪の毛が見分けられても、馬鹿さ加減が拡大するだけだろう(P068)。

言葉は、登場自分物の文化的・社会的背景を端的に表している。それを理解できないことは、作品の最も重要な部分を理解していないことを意味する。
そう考えると、異なる文化の理解はなんと難しいのだろうと、ため息が出る。言葉が重要な役割を担う文学、演劇、映画は、絶望的なのだ(P084)。

これまでの日本で、リスク評価の重要性が意識されなかったのは、つねに値上がりする「土地」という絶対確実な担保があったからだ。
これさえ押さえておけば、貸し付けの安全性は確保された。
銀行にとって重要だったほとんど唯一の課題は、支店を拡大して預金を獲得することだった。
支店の開設は大蔵省の認可事項となっていたため、当局とのつながりを密にすることが必要だった。
「モフ担」と呼ばれた大蔵省担当係が出世コースになったのは、当然の帰結だったのである。
「地価が上昇し続ける」という環境のなかで、日本の銀行のこうした体質は、まったく合理的なものだったと考えざるをえない(P106)。

「食糧安全保障」ということが言われる。ところが、そう言う人の多くは、「安全保障のために国内生産を」と言う。
しかし、供給源分散こそが、食糧安全保障なのである。われわれは、すべての卵を一つのバスケットに入れるという愚を犯してはならない。
「自給率が低いから心配」というのは、国内供給者の論理なのである。われわれは、そうした議論に惑わされることなく、消費者の立場から問題の本質を見きわめなければならない(P178)。

この本をどう活用するか
毎日当たり前に受け止めていることについて、もう一度理由をつけてみようと思いました。全てを疑ってみます。