『「意識の量」を増やせ!』

「意識の量」を増やせ!

読後の感想
齋藤先生は商売上手だなぁというのが最初の感想。受験、就職、結婚といま流行の不安を持った人をターゲット層にするあたり流石です。
その中でも大学教授という仕事を生かしつつ就職にスポットを当てて書かれています。

本書でいうところの「意識の量」とは、いわゆる想像力のこと。
しかも空想ではなく未来に起こる出来事の予想のことです。
つまり目の前の現在、だけではなく、「仮に」こういうことが起こったら、
とか、相手がどういう風に反応するか、とか。

今まで「仕事ができる人」なんてくくりをされていたのを独自の言葉ではあるものの
具体化をし、さらにどうやったら「仕事ができる人」になれるのか、
と論理展開していく流れはなかなか面白かったです。
たとえば、第Ⅲ章の「自動化する、細部を見つめる、言語化する」というのは
いま困っているけどどうしていいのか分からないという人にとっては
かなり分かりやすい解決方法だと思います。

思うに、斎藤先生は職業柄自分のことがよく分かっていない人(学生)よく接しているため
そのあたりを導き諭すのは上手なんだろうなぁと読み進めながら思いました。
相手のレベルまで下りてきて寄り添ってくれるといった感じ。

本書に書かれている通り、質を上げるのは大変ですが
量を増やすのは、質に比べたら圧倒的に楽というのが印象的でした。
とっかかりのハードルを下げるのが上手ですね、この本は。

印象的なくだり
卒論は卒論、就活は就活、大学の授業は授業と、やらなくてはいけないことを同時に並行させて進める意識をもたなければならない。とりあえず自分が一番気にかかっていることだけに逃げ込んでしまうことがあるが、えてしてそれは、客観的に見て一番重要なことではなかったりする(P026)。

意識の量が多い人は、普段から「日常には複数の不測の事態が起こるかもしれない」とわかっていて、直近の未来を予測しながら現在の行動を決めている。意識の量が少ないと、「いま現在」にしか意識が向けられないし、決まりきった答えを暗記することしかできない(P036)。

大学受験も、就職も、結婚も、すべて相手のあることだ。先方が「この人が欲しい」と考えている合格圏内に入れなければダメだ。大学受験の場合は、大方、学力で決まる。結婚の場合は相性だろう。就職は意識の量なのだ(P040)。

意識を目に見えるかたちで定着させるのに一番いいのが、文字化することだ。
何かを考えたり、聞いたりしてメモをとる、頭に浮かんだこと、忘れてはいけないことを列挙する。考えをまとめ、整理して文章にする。「書く」ことはその人の意識の量を端的に表す。
手っ取り早いトレーニングの一つが、「項目を挙げる」こと。リストアップの作業。
たとえば、優れた教育実践を行っている先生の映像を学生に見せ、「この先生はいったいなにがすごいんでしょうか?」と、思いつく限り挙げてもらう。同じ映像を見ているのに、二○項目以上挙げられる人と、五個ぐらいしか挙げられない人といる。意識の量が一目瞭然になる。
「すごい」というのは、なんとなくの印象だ。卓越しているんだということはなんとなくわかっているが、何がどう卓越しているかはつかめていない。それを具体的に言語化することで、何がどうすごいのかが言語化できていないことには実践できない(P091)。

「マジ、すげえ」「ヤベェ」みたいな言葉ばかり使っていて、自分の状況や感情を表現するのが五○語以内の語彙でおさまってしまうような会話をする人がいるが、言葉が足りない人は意識の幅も狭い、広がっていかない。
自分のもっている語彙力以上の会話はけっしてできない。自分の思いを的確な言葉に置き換えることもできないし、言葉によって自分と他者との感情のギャップ、意思のそごを埋めることもできない。
言語能力が低い、語彙力の乏しい人が怒りっぽかったり、キレやすかったり、感情をぶつけることになりやすいのは、自分の意識と言葉が自由にならないもどかしさが原因でもある。
だから私は本を読もう、質のいい言葉にたくさん触れようと言うのである。
自分と異なった価値観、離れた世代の人から何かを学びたい、交流したいと願ったとき、彼らと意識を交換させていくのに、語彙が豊富であることは大きな武器になる(P101)。

行き詰まってしまったら誰かに相談するといい、とよく言う。そこで若い人がミスしてしまいがちなのが、自分の悩みを一番話しやすい相手、友だちに相談してしまうことだ。
友だちは自分と同年輩で、経験知も似たり寄ったりだ。そういう相手に相談したらどうなるか。
(中略)
しかも友だちは、自分の気持ちをわかってくれるから友だちなのだ。価値観や考え方も近い場合が多い。つまり、似た視点で判断する(P130)。

現代の日本の教育システムは西洋型になり、まずは自尊感情を定着させようということでやっているのだが、それがあまりうまくいってない。なぜかというと、他者の客観的評価にさらされる機会が、教育の現場でどんどん少なくなっているためだ。
他者の評価にさらされるところでは、ショックなこともいろいろある、ときには痛い目にも遭う。だからこそ、そこで獲得したことが意味をもつ(P142)。

「増やそう」と思ってトレーニングするだけではなく、「これも意識量の問題だな」と気づくだけで、量が増す。
ポイントは、「量」ということだ。量なら、簡単に増やすことができる。
「質以前に、まずは量!」これは、私の上達論でも基本とすることだ。「意識の質を高めろ!」「意識を鋭くしろ!」と言われても、具体的にはどうしたらよいのか、ちょっとわからない。だから、自分の標語にはなりにくい。一方、質はもちろん大切だが、
「まず量だ」と思うことで気が楽になり、チャレンジする気になれる。
「量」なら、いますぐにでもなんとかなる(P191)。

『「事務ミス」をナメるな!』

『「事務ミス」をナメるな!』
光文社新書

中田亨
光文社

読後の感想
新書でこれほどの満足度(仕事に反映できるという意味で)の本は久しぶりでした。
事務ミスを「単なるうっかり」として捉えずに、原因究明から解決策までやってしまおうという壮大な目的を掲げながらも、足元から着実に書かれている合計11章はなかなかの傑作です(ところどころに引用されている古典もいい味だしてます

特に実践編の第5章はミスを解決するための考え方についてで、1.しなくても済む方法を考える。2.作業手順を改良する。3.道具や装置を改良する、または取りかえる。4.やり直しがきくようにする。5.致命傷にならないための備えを講じる。6.問題を逆手にとる、とこれらはフレームワークとしても非常に参考になりました。

この著者はミスマニアかと思わんばかりのミスの分類分けとその対応策には本当に驚きました。おそらくとてもコスト意識と効率を大事にする人で、同じ失敗を繰り返したくないという強い気持ちがこんな風な考えを産んだのだろうと思います。

印象的なくだり

過剰適応によるミスを鎮圧するには、訓練を重ねても逆効果であり、一旦慣れたことをリセットして、初心に帰ることが必要です。そのためには、「過剰適応によるミス」と「普通のミス」とを見分けなければなりません。
そこで目を付けるべきは、発生の「系統性」です。発生の仕方に規則性があることを系統性と言います。
建物で案内板が不足していると、顧客は迷った末にそれぞれバラバラの窓口にやってきます。これが「ランダムなミス」です。案内板に誤植があると、顧客は整然と列をなして、しかし間違った窓口にやってきます。こちらが「系統的なミス」です。ミスが系統的ならば、それを引き起こす特定の元凶があるはずだと推定できます(P025)。

正誤の規準を言い表すには、種々雑多の間違いを相手にせず、一つだけ正しいやり方を定義する方が効率的です(P050)。

『社会起業家という仕事 チェンジメーカーII』

『社会起業家という仕事 チェンジメーカーII』
日経BP社
渡邊 奈々

読後の感想
僕はこういった信念を貫いた人のことを書いた本には弱いです。
それは僕自身が貫けないからだと感じてます。
普通は自分ができないことをできる、というのは妬みの対象になることが多いのですが、
この本にでてくるような人は、もうそういったレベルではなく完全に脱帽・・・といったところで、
そもそも嫉妬の対象にはなりませんでした。
図らずも田坂広志先生が後書きで、このような考え方を一蹴してくださったので(笑)、
自分の使命を考える非常にいいきっかけになりました。

この中では17人の社会起業家が登場しますが、
その中でも心に残ったのは教育分野に進出する人の数の多さです。
いわゆる負の連鎖によって生まれた瞬間にその人の人生が決まってしまうような世の中をなんとかしたい、
という気持ちは、その考え自体が教育の可能性を信じてるという告白であるということです。
と、同時にその人自身が教育によって人生が変わったという
経験があるからこそ、の考え方だということでしょう。

多くの場合、個人的な幸福のみに収束しがちが個人の経験を、
社会に還元しようと思う子持ちは誰しもがもったことがあるのですが、
それができる人と、できない人との違いは何だろうかと考えざるをえませんでした。

印象的なくだり
幼児期を過ぎると子供は「社会性」を身につける。
「公の場で大声を出さない」「通りで見かけた身障者にどうして足が悪いのですかと聞いたりしない」といった
「社会常識」を身につけるとともに自分の「生の感情」をストレートに表現する性向も薄らぐ。
盆栽を刈り込むように様々な感情を抑え込むことで社会生活を営みやすくなるのだ。
いじめっこは何らかの事情で「善」の感情を抑え込んでいる「精神的な欠陥者」といえる(P020)。

古い国には古い因習がつきものだ。
たとえば、インド社会の最底辺に生きるダリットへの差別、
いまだに奥地に残る一夫多妻の制度、いたるところで見られる女性差別、
農民の自殺、子供の強制結婚ー。
インドの地方ではこういった因習がいまだに根深いが、
一方でデリーやムンバイなどの大都会ではその存在を知らない人も大勢いるという(P101)。

オクラホマの小さな町で、13歳の女の子ふたり組がバーで知り合った男に車で旅をしようと誘われた。
12~14歳くらいの女の子といえば、世間知らずなのに自分では何でも知っていると思いがちな最も危険な年齢だ。
したがって、この年頃の娘たちは最もだましやすい。
売春婦の平均年齢が米国で13歳、外国で12~14歳というのはこういった理由からだという(P151)。

「途上国の子供たちが求めているのは、食料。
先進国の子供たちが飢えているのは、精神的な糧よ。
人の一生にはいろいろな試練や失敗がつきもの。
失敗しないように完璧に生きようとすることはとても危険なことです。
そういう態度は現実を否定することですものね。
大切なのは回復する力。何かあったら一時的には沈んでもまたムクムクと立ち上がって進んで行く力のことよ。
成長過程での、自分を無条件で愛し信じてくれる大人の存在が、
子供たちにレジリエンスの芽を植え付けてくれるんです」(P214)。

『遭難フリーター』

遭難フリーター
岩淵 弘樹
太田出版

読後の感想
興味本位で手に取りました。

フリーターというよりも派遣労働(もっといえば期間工に近いかも
派遣会社と契約し、工場に派遣される。
派遣会社が借りた家に住んでるため生殺与奪を握られ、勝手に鍵を開けて入ってくるという
(もちろん違法です

中身を読むと特に仕事内容については書かれていません。
というより書けないのだという。書くほど内容がないからだと。
著者はそれなりに仕事に対して責任感を持っている人なのにそれでも書けない。
その焦燥感や無力感が、書けないことを通じて苛立っているのがよく伝わってきました。

ときおり出てくる元カノの話はなんだろうなぁと考えていたが
元カノが今の彼氏と分かれそうになったり元に戻ったり、また別れたりという
流れがないと、本のなかの出来事の時系列がしっくりこないからだと感じました。
つまり、仕事の内容も感想も最初から最後まで何にも変わらないのだから・・・

著者のように一度このような生活をしてから元に戻れる人はどのくらいいるのだろうか。
いわゆるメタ認知ができていないと危ういことに気づかないのかもしれないなと強く感じました。

それにしても副題のタイトルが生かしてる。
A Permanent Part-Timer In Distress。
フリーターの正しい翻訳がこれかどうかわからないが、
永続的にパートタイマーというのは自虐的で非常にしっくりくる比喩でした。

印象的なくだり
筒井康隆の『残像に口紅を』という小説では、章が進むごとに使える文字が減っていくというルールがあって、[で]とか[す]とかが使えなくなって、最後のほうでは語尾が「~じゃ」とかになっていく。
とにかく日記を書こうにも一日に何もなさ過ぎて、書くことがなくなってきている。
『残像に口紅を』と同じで、どんどん世界が閉じてしまっていくような感じだ(P050)。

『のはなしさん』

伊集院 光
宝島社

読後の感想
感想というよりも、僕の伊集院さんへの愛を語る文章になってしまいそうで怖い、なんて思いつつ。
思えばニッポン放送がちゃんと入らない地方で、雑音の中、かすかに聞こえる「Oh!デカナイト」を聞き出した頃から、僕の人生の基本姿勢が形成されてきているような気がします。
その後、電気GROOVE、浅草キッド、(あと大槻ケンヂとか)と、後世に「バカばっかりのニッポン放送」の時代を満喫してきました。
そして、東京に出てきてから聞き始めた「深夜の馬鹿力」。
当時はこんなに長寿番組になるとは思っていなかったなぁ。

と、予想通り話題がそれてるけど、本のお話。
一つ確信したのは、僕は敬愛する人物の話ならいつまででも聞いていたい、読んでいたいと思うタイプであるということ。
読み進めている時間は本当に幸福でした。

その中でもきっと誰しもが思った新規収録のお話。
五代目三遊亭圓楽師匠が亡くなってのお話はホロリときました。
偶然にもこれを読んでいたときに、自称5代目立川談志師匠も亡くなり、
伊集院さんは今もこんな気持ちなんだろうかと胸を馳せました、とさ。

ほらね、好きすぎてまともな感想になってません、なのでおしまい。