『関東のしきたり関西のしきたり』

青春出版社

読後の感想
出張帰りに新幹線のキオスクでついでに購入。
ケンミンショーなどの番組が好きな方は是非どうぞ。
早ければ30分くらいでサクサク読めます。
2011年出版と言うことはつい最近。この手の本が消えないのは、それなりに需要があるからなんだろうなぁとどうでもいいことを考えてしまいました。

印象的なくだり
関東で使われている畳は「江戸間(田舎間)といい、畳一枚のサイズは176センチ×88センチ。一方の関西の畳は「京間(本間とも)」で、サイズは191センチ×95.5センチとされている。関東の江戸間よりも大きめ。つまり、関東の6畳が関西では約5畳の広さとなるわけだ。
(中略)
畳が使われるようになったのは平安時代の頃のことだが、当時は寸法もまちまちだった。その後、寸法を統一することになり、規格が設定された。それが、今の「京間」サイズ。当時、区分されていた平安京の町の一画を六等分にした寸法を基準に、決められたという。
さらに、時代は進んで江戸時代に入ると、江戸の町に人口が集中。江戸では、家の需要が急激に増えたのだ。
そこで、できるだけ早く家が建てられるよう、柱と柱の間の寸法が統一されるようになり、それにぴったりはまるように畳一畳の寸法も変えられたのだ。これが「江戸間」サイズというわけである。
ちなみに名古屋を中心とした中京地方では、畳は江戸間タイプでも京間タイプでもなく、「中京間」という182センチ×91センチの畳が主流(P090)。

『A4 1枚で「いま、やるべきこと」に気づく なかづか日報』

中司 祉岐
経済界

読後の感想
たまたまある人から毎日書く日報が負担でしょうがないという話を聴き、気になっていた日報。多くの人がイヤイヤ書いているであろう日報を、せっかく書くなら活用できるアドバイスの足しになれば、と思い読み始めたのがきっかけでした。

見える化、選択と集中、気付きの記録、手書きによる意識の刷り込み、と書かれてる内容は割とどこでもあるものでしたが、ただ一つこの作者しか出来ないことが書かれていました。

それは、日報の添削。

例示として、幾つ日報が掲載されていたのですが、その中にコンサルタントとして著者が添削(というかコメント)をしているのでず、それが非常に的確かつ優しい。

今まで日報コンサルタントとして、成果をあげてきた、との事でしたが、
実は肝なのは日報よりも著者の中司さんの力では?と思う位でした。
(と、書いてしまうと「日報」本にならないので、その形では売らないだろうけどねw

ともあれ、使い古されたツールである日報を、他人のために、報告のために、から、「自分のために」と再定義して売り出して本にしてしまうあたり、そういった才覚は見習いたいと思いました。

おしまい

印象的なくだり
このころの彼の言葉で印象深いのは、
「日報に数字を書くことで、毎日がクイズみたいになったよ」
ということです。
あけてもくれても数字と向き合っているうちに、彼は数字が語り出す「?」に耳を傾けるようになったのです。もの言わぬ数字から販促策や改善点を探し出し、考えるようになったということで、それを彼は「クイズを解くようだ」と表現したのです。目の前の商売に、楽しみを覚えるようになった証拠でした(P096)。

業績の悪い経営者や営業マンほど数字を敬遠しがちですが、数字を嫌わないでください。数字はあなたに、いちばんいま差し迫った課題を教えてくれる、大きな味方ですから。日報を書き続ければ必ず数字が好きになります(P098)。

行動の「意味」を言えなければ、「行動していない」と同じですよ!(P099)。

私たちの行動には、必ずといってよいほど、改善点があり、同じくらいプラス面があるのです。ただ、それを知るためには、思いつきやひらめきに頼ってはムリです。詳細に、正確に、毎日の行動を書き記し、比較検討するところからしか見出すことはできません(P115)。

お客様を訪ねる際に使う道路状況を調べました。そしたら店を出たら、車はすべて左回りでお客様を訪問できるようにアポをとるようにしたのです。
車で回るときに左回りをすれば、右折の際によくある対向車に邪魔されることがないため、スムーズに移動できます。
実際に動いてみると、この移動は左回りの渦巻き状になりました。面白半分で、「渦巻き大作戦」と名づけたものです。でも、これによってほとんどジュウタン爆撃のように、そのエリア内のお客様を訪問できるようになったのです
(P131)。

ひどい現実でも、知らないよりは知っていたほうがいいに決まってます。現実を知らなければ落ち続けるだけで救いはありませんが、正確に知れば、そのときは痛みを感じるにせよ、快方に向かう手立てがすぐに考えれます(P153)。

それぞれの案件ごとに部門化して、投入すべき人材と経営資源、売上げ目標を部門ごとに細分化しました。その上で、日報では、目標来店数と実際の訪問数、契約率を毎日書かせるよう、項目に加えたのです。なかには、数字まで毎日書かせる意味があるのかと疑問に思う方もいるかもしれません。
しかし、私に言わせると、毎日細かい数字を書くことに意義があるのです。昨日からまったく売上げが上がっていなかったら、昨日と同じ数字を書かざるを得ません。筆が進まないのでしょうが、だからこそ、明日はがんばらなければという気持ちになるのです(P240)。

『オタク学入門』

岡田斗司夫
新潮社

読後の感想
この本を読むまでは(実は)自分はちょっとしたオタクだと思っていましたが、本当はただちょっとだけそっちにかぶれていただけの、サブカルっぽいものが好きな形だけのヤローだったと気付きました・・・、と正直に告白します。

このように自分自身のことに対する見方が変わるほど視点の変換がありました。有り体に言うとパラダイムの変換というか、そんなところ。他にいい表す言葉が見当たりませんが、後頭部をガツンと殴れた感じがしました(いい意味で

具体的には、オタクとはある作品について(もしくは作者とかジャンルとか)に詳しいことを言うのではなく、視点・思想であるという定義についてのお話。つまり「オタク」というのは主義者みたいなものである、ということです。何を見ても、その主義者としての視点から語れるのがオタクであるということは、裏を返せば「何を見てもその視点から語れないとそもそもオタクではない」ということなのです(たぶんね

確かに言われて見れば、確かにマトリックスなどの映画も、攻殻機動隊みたいなアニメも、ももいろクローバーみたいなアイドルも同じ土俵や物差しで語れる、みたいな人を僕はまさにオタクと感じているような気がします(何度も書きますが僕がそう感じているだけです)。

何を見ても同様の視点から見られる、いわゆる定点観測をしていれば、当然目も肥えてくるし、違いにも敏感になります。となると一言申したくなるし、多弁になったりするわけです。

そういう意味では、視決してアニメキャラのTシャツを着て紙袋を持ってリュックをしょっているからオタクではなく、何の話をしても最終的にはガンダムや攻殻機動隊の話になってしまう人(目標)もやっぱりオタクなんだなぁ、としみじみ思いました、よかった。

ちなみにこの本を読むと、ルパンとかエヴァンゲリオンが激しく見たくなります。僕もカリオストロの城を見直してしまいました(そして作者の言いたいことが本当によく分かりました)。

印象的なくだり
アニメだけが好きな人間は単なるファン又はマニアでしかない。単独のジャンルだけに興味を持つ、というのはオタク的な価値から大きく外れている
(中略)
オタクなセンスというのは、たとえば「アメリカンウェイ」とか「フェミニズム」「エコロジー」みたいなもんで一種の価値観・世界観だといえる。たとえばエコロジーを例に考えてみよう。
正しいエコロジストの在り方は「環境保全・保護」というコンセプトにそって自分の行動を決めることだ。「クジラを殺すな!」なんてステッカーを貼ったスポーツカーに乗って、排気ガスをまき散らして暮らす、なんてのはエコロジストではない。そいつはただ単なる「クジラ好き」だ。
自然保護・環境保全・代替エネルギーの立案・リサイクル・非大量消費社会への動き。正しいエコロジストのやるべきことは山のようにある。
これと同じく、アニメしか見ないオタクはタダのアニメファンだ。クジラのことしか考えない人がエコロジストではないのと同じである。アニメを考え、それを深く追求すればするほど、他のオタクジャンルに無関心でいられるはずがない。
確かにアニメはオタキズムのホームグラウンドだ。けど、ゲームにも特撮にも洋画にもマンガにもオタク度の高い作品はいっぱいある。で、実はそういった作品は互いにものすごく影響を与えあっている。それをジャンルクロスして見抜き、楽しむのが「オタク的な見方」なのだ(P042)。

つまり抽象化というのは要するにデフォルメと省略のことだ。自分の印象深いものをデフォルメする。その他の部分は省略、もしくは縮小する。どこをどのくらいデフォルメするか、それが画家のセンスだ。と同時にそのイメージ通りに描くには当然鍛えぬかれた技術が必要なのだ(P141)。

どんな国の映画界にも「戦意高揚映画」、つまり「戦争ってかっこいいなぁ映画」はある。とりわけ熱心だったのはアメリカで、ウォルト・ディズニー・プロだって戦争中はえげつないアニメを山ほど作っていた。アメリカの陸・海軍もそういった映画には全面的に協力した。撮影のために本物の飛行機や戦車をバンバン動かしてくれたのだ。
けれど、アメリカと違い、日本軍部は映画のために戦闘機や戦艦を動かしたりしてくれなかった。それどころか、資料や写真も借りられない。機密保持の方針が厳しかったからだ。
仕方なくミニチュアの飛行機をワイヤーで吊って飛ばし、でっかいプールに模型の戦艦を浮かべた。本来ロケに使う予算で贅沢な特撮セットを組んだわけだ。
そのとき作ったプールや培ったミニチュアの技術、スタジオ等が戦後の怪獣ブームの基礎となった。逆に、アメリカは軍からもらう実写フィルムや軍の飛行機を実際に飛ばしてもらう手法ばかりに頼っていたため、特撮技術は少しも進歩しなかったのだ(P162)。

メインカルチャーの子供観
メインカルチャーとはおおざっぱにいうと、アート、文学、科学、歴史、クラシック音楽といったアカデミックかつクラシックなもの。もっと平たくいうと大学で昔から研究してきたようなもののことである。
彼女たちが所属しているヨーロッパ文化圏では、メインカルチャーを身につけるのが当たり前である。それも出来ない人は「クラスが低い」とされてしまう。いまだ階級社会の色合いを強く残しているヨーロッパでは、「メインカルチャーを身につけず、自ら階級を下げる」なんてことは半分自殺行為のようなものだ。
で、そんな社会でも「子供のための文化」は存在する。ただし、これは「子供が楽しむため」のものではなく、「子供をちゃんとしうた大人に教育するため」の文化だ。「ちゃんとした大人」とは、「自我を確立した市民」という意味。わかりにくければ、「メアリーポピンズ」や「ピーター・パン」に出てくる父親のように、銀行員や実業家、役人といった「立派な人たち=階級社会の市民」と考えてもらっていい。
アカデミックな教養があって、社会的信用も高い立派な大人。子供はみんなこういう立派な大人・市民になるべきだ、というのがメインカルチャーな考え方だ。そのための教育を目的として与えられるのが子供文化だ。
現在、日本でも若いおかあさんたちに人気の高いヨーロッパの知育玩具といったものは、、みんなそのポリシーで作られている。レゴやパズルなど、日本でもメジャーなおもちゃはもともとすべてそういう目的で作られたものなのだ。
この子供文化に対する考え方は、一見当たり前のようの聞こえるが、実は日本人の考え方と全然違う。ヨーロッパでは、子供にそういった安全で教育的なもの「しか」与えないのだ。テレビ番組を自分で選ばせるとか、テレビゲームを次々と買い与える、といったことは一切ないのが本来のメインカルチャーな考え方なのだ。「子供文化」とは子供たちが作る文化ではなく、「大人が与えるべき文化」でしかありえない。
そういった価値観からとらえると、日本のアニメはもちろん子供の教育のための文化に入るわけはない。教育的な要素がないどころか、人を殴ったり下品だったりで反教育的な要素がたっぷり含まれている。それを見続けることによってアートや音楽に関しての見識も深まったりしない。合格ラインの作品などゼロだ。
こういったものを子供に与えるなんて考えられないというのがヨーロッパのメインカルチャーの方々の考え方だ。こういった人たちにとって、日本のアニメは「サブカルチャー」に見える。大人に反抗する文化「カウンターカルチャー」、立派な大人になりきれないオチこぼれの若者が作る文化、「サブカルチャー」。
だから、ちゃんとした大人と自分をとらえている人たちは日本アニメを相手にしない。子供たちをちゃんとしたメインカルチャーに導いてあげるのが、大人の義務と責任だから(P341)。

日本文化では、粋を理解する客がいなければ文化は成立しえない。現在、古典落語が滅びつつあるのも、落語の世界の約束事を理解する客が減ってしまったためだといえる。
どんなに世界を守って趣向を凝らしても、そこのところをわかってもらえなければ仕方がない。どう趣向を凝らせばおもしろいかわからなくなってしまう。仕方なく、趣向なしでいつも同じ演出になっていく。そのため、ますますお客が減っていく、という悪循環が起きているのだ(P355)。

オタクというのは、作品論ではない。何をどう見るか、という視点の問題なのだ(P375)。

『リーダーシップ』

『リーダーシップ 新装版―アメリカ海軍士官候補生読本』

アメリカ海軍協会
生産性出版

読後の感想
昔から「平家、海軍、国際派」というように、海軍は進歩的な存在の象徴だったりします。
それは、常に船の性能が生死を左右するような技術戦であることや
海洋はつながっているので国際的な決まり(万国公法とか)に従うためや
相手のことを学ぶために、言語を習得する(必然的に海外を知る)理由があったからではないでしょうか。
この本はアメリカ海軍の士官候補生に向けて書かれています。
その性質上、士官候補生は配属と同時にいわゆる指揮官として配属されることが多くて、
たたき上げの人からするといきなり年下の上官が来たりして、
それはそれで心中穏やかではなかったりするわけです
(この辺の悲哀は「きけ、わだつみの声」などをご参照のこと)。

というわけでリーダーシップの本です。
優秀なリーダーの下では生き残ることができるのに、
そうでないリーダーの下では全滅、なんてことがありがちな軍隊で書かれただけあって、
生死をかけたリーダーシップ論に背筋を張りながら読むことができました。
部下にとって上官が生死の鍵を握っているのと同様に、
上官にとっても部下の動きは生命線なわけです。
そのような場面ではリーダーシップが取れること自体が、
命を懸けたミッションだったという部分で、
今のぬるい自分の立場に身に沁みました。

印象的なくだり
リーダーシップの定義
リーダーシップとは、「一人の人間がほかの人間の心からの服従、信頼、尊敬、忠実な協力を得るようなやり方で、人間の思考、計画、行為を指揮できかつそのような特権をもてるようになる技術、科学、ないし天分」と定義されよう。
これをテキスト全体の定義とするので、よく脳裡に銘記されたい。この定義は、リーダーシップの実践が科学的アプローチの具体化であるという近代的概念を包含し、リーダーシップを生まれながらのリーダーの技術や天分とする狭い考え方に拘束されない(P003)。

有機体の生存における意識の効果を科学的に研究することは、十分価値のあることとダーウィンは考えた。自己分析をしてみると、運動技能を学習しようとする場合、最初は自分の行動をはっきりと意識しているが、習慣が完全になるにつれて、意識は遠ざかっていく。そして習慣が確立されてしまうと、意識せずに自動的に手足が動いていく。したがって意識は、人間の学習を助けることで有機体としての人間の存在に貢献するように思われたのである(P026)。

科学者は、誤った解答に騙されないように注意しており、その顕著な態度の一つとして理性的もしくは健全な懐疑主義があげられる。これは、ものごとを信じる場合に、十分な根拠が存在するまで疑いの余地を残しておくという態度であり、問題に対する解答を探求する過程がもっとも重要であるという態度である。
(中略)
つまり、懐疑的な態度というのは、日常の問題に対して、安易な既成の解答ではなく、よい解答を得るための第一歩なのである(P035)。

科学者は、かならずしも多くのことを知っている人ではなく、むしろ多くの問いをする人と言ったほうがよい。反対に、平均的な人のほうが、多くのこと、とくに「人間性」について「知っている」と思っているかもしれない。家族の影響、教育、個人的経験、これらのすべてのことが、人生や生きるべき道について、「普遍的真理」と見なされている解答を理解させる際に、影響するのである。科学者はどちらかといえば、この種の普遍的真理については健全な懐疑心を身につけており、まったく普遍的ではないものがあることもすでに学んでいる。また、容易に手に入る既成の解答の多くが、厳密な分析に耐えられないことも知っている(P036)。

現代文明における人間の基本的特徴の一つは、解答を得たいという欲求である。個々の人間は、一つの解答は百のよき問題に値するという思いを強めながら成長する。そして、問題に直面した場合、解答が得られないと、何となく不十分な気持を抱くのである。大いに当惑したあげく、よい解答への努力を惜しんで、安易な解答に満足してしまうことも少なくない。しかし、これは時として、きわめて不幸なことになる。なぜならば、いったん解答が得られると、善かれ悪しかれ、解答を主観的に防御しようという気持が強まり、ある人個有の解答となって、問題の解答にならないだけでなく、解答に対するいかなる攻撃も一人で受け止めなければならないからである。自我が解答に投影されており、解答を支持するような事実だけで、自我を守ろうとするのである(P044)。

よい士官は、よい観察者となるにあたって、大いに勉強になるのは、科学者の例に倣うことである。科学者は関心をもつ必要のある重要なことがらを選別するコツを身につけている。何を検討するかがわかるようになるには、素地となる知識がなければならない(P045)。

生命は過程である。万物は絶えず流転し、相互作用し、変化している。もみじの日々の移り変わりとか、昨日と今日の年齢の違いなど、変化といっても実際にはほとんど意味がない小さなものもある。それでも、変化は絶えず行われている。実際に重要な変化が表面化するのに一か月、一年、ときには一○年も待たなければならないこともあるかもしれない。それでも変化は起こるのであり、昨日が今日とまったく同じように、また一九二○年が一九六○年と同じように行動するような人は、新たな異なる方向の問題に対しても、古色蒼然とした解答を与えるに違いない(P047)。

集団は、成員のすべてが集団と強く同一化するとき、きわめて強い潜勢力をもつものである。成員はすべて熱心に仕事に取りかかり、一生懸命努力し、仕事をなし遂げ、目標を立派に達成するのである(P066)。

紳士としての海軍士官
しばしば「士官と紳士とは議会の法令による」という表現を耳にする。実際においては、「士官」および「紳士」という言葉は、同義語である。「紳士」という言葉が非常に多く出てくるから、その意味を、海軍士官の役割に関連づけて検討するものも有益であろう。
ある無名の著者が次のような素晴らしい紳士の定義を下している。
内も外も清潔な人、富める者をあがめず、貧しい者を見くださない人、負けて悲鳴をあげず、勝って自慢しない人、他人に思いやりがある人、大胆で偽らず、寛大で欺かず、分別があって、のらくらして遊ばない人、世の中の財貨のうちの自分の分け前だけを取り、他人にその分け前をもたせる人ーこれこそ本当の紳士である(P117)。

『全貌ウィキリークス』

『全貌ウィキリークス』
マルセル・ローゼンバッハ, ホルガー・シュタルク
早川書房

読後の感想
ウィキリークスほど日本と海外(特に英語圏)との評価が分かれるサイトは珍しいのではないだろうか?本を読むまでは日本でのイメージとしてはネットを利用して公電などをすっぱ抜くというややダーティなものだったが、本を読むと実際には内部通報が主でありクリーンなもので余りにもイメージと違っていて最初は非常に戸惑いました。
この本は創始者であり中心人物のジュリアン・アサンジのインタビューを元に作られており、その内面に迫ろうとして根気の要る取材を続けていたようです(ウィキリークスに友好的なドイツの週刊誌シュピーゲルの記者ということも幸いしたようですが、アサンジは好き嫌いがハッキリ分かれるタイプに見受けられるので取材は大変だったろう)。

ウィキリークスがこれほど注目を浴びるきっかけとなったコラテラル・マーダー事件。アメリカ軍のアパッチ(AH-64)から機銃掃射をし、さらに無抵抗の民間人も掃射。で、報告書には敵の戦闘行為に巻き込まれたもの、なんて書かれていたもので、非常に大きな影響がありました(見たい方は、Collateral Murderで検索すると見れますが、衝撃的です)。

ロイター通信も手に入れようとして手に入らなかったようですが、既存のメディアではなく、(当時は)単なるサイトが公開できることに権力側は本当に脅威に感じたようです。というのも権力とは、情報をコントロールする力が性質上備わっているので、このように情報を手に入れることができる存在は権力を脅かすものだからです。

この一件を読んで、「情報」って何だろう?と深く考えずにはいられませんでした。世の中には「知らなくてもよかった」ことも多くあり、それを「知らないまま」で居させるかどうかは「知っている」側が決めることに、いまだに何となく抵抗感があります(かといって、すべてを知らせる、のは正しいのかは判断がつかない)。

そんな訳で、隠したい情報を安全に暴露するという仕組みについてウィキリークスは非常に優れたものだとは思うのですが、残念ながらいまは休止中です。理由は本書の中で。

読み応えがあり、リアルタイムで状況を見ながらサクサク読める本でした。

印象的なくだり
「(前略)歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公表と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう」
アサンジは、ウィキリークスは「世界最強の諜報機関、人民の諜報機関」になりうると豪語している(P024)。

米国は公式の場でウィキリークスを国家の敵、国家安全保障の驚異と位置づけた。中国、北朝鮮、ジンバブエ、ベトナム、タイといった国々は、すでにその前にインターネットの内部告発サイトは驚異であるとして、ウィキリークスへのアクセスを遮断している。米国も一部でこれに追従した。公務員はウィキリークスのIPアドレスへの接続を禁止され、由緒ある連邦議会図書館さえも、ホワイトハウスの指示によりウィキリークスへのアクセスを遮断した。米国は言論の自由にかんしては中国政府と似たような路線ととっているーこんなことをこれまで誰が想像しただろう?(P027)。

インターネットの時代ほどスパイ行為が簡単な時代はない。自分の良心の命ずるままひとりの公務員がウィキリークスに連絡し、秘密データの入ったファイルを送信すればいいのだから。インターネットの発達により、告発者の居場所はそれほど重要な意味をもたなくなった。むしろ重要なのは、どこにアクセスできるか、何にかんする情報を持っているかだ(P031)。

偶然、一枚の板に何本もの釘が打たれたとしよう。その釘が陰謀者だ。糸を釘から釘へと切れ目なく渡していくとしよう。それがコミュニケーションだ。コミュニケーションは釘のあいだを流れる。すべての陰謀者が互いに信用しているわけではなく、すべての陰謀者が互いに意志の疎通をはかっているわけではない。しかし彼らは間接的に互いにつながっている。陰謀者の間のすべての結びつきを切断することに成功したなら、陰謀はストップする、とアサンジは言う。問題は、それ以上糸を切断したらもう陰謀は成立しないというリミットに、どのくらいの糸を切断しなければならないかだ(P132)。

米国の法体系には「重要参考人」という役まわりがある。ある人物に対する進行中の捜査に重要な証言を行える目撃者は、その意思に反して拘束され尋問されうる(P194)。
体制側に身を転じ、秘密の公開に反対する立場に回るというジャーナリズムの反応は、特に次の二点と関係がある。ジュリアン・アサンジという人物の発言や行動が、ジャーナリストたちの反応を賛成派と反対派にはっきりと二分させてしまうような極端なものであること、そして、ウィキリークスが行った暴露の本質として、暴露された情報には、大方のジャーナリストたちが想定していなかった要素が含まれているということだ。
つまり、ウィキリークスが行っているような、現在の政治システムの根幹をなす部分への攻撃は、多くのジャーナリストが自分の仕事としては想定していなかったものなのだ。ジャーナリストが目指すのは改革であって革命ではない。だからこそ、ジャーナリズムの多くが、ウィキリークスが行った群の報告書の暴露や、ひいては外交文書の暴露に対し、後ろめたさを感じる。つまり、ジャーナリストたちにとっては、改革を目指していたはずなのに革命を目指す行為の手足になってしまった気がするわけだ。そもそも改革をめざしているのかどうかもわからないが(P355)。

各種の賞を受賞しているドイツ人の調査報道記者、ハンス・ライエンデッカーは、公開されないままの秘密があってもよいはずだと主張した。また、独ターゲスシュピーゲル紙の発行責任者、ゲルト・アッペンツェラーは、オリジナルの文書がひとつも公開されないうちから、この文書には「何も目新しいことはない」と書いた。文書を公開しても誰の役にも立たないどころか、多くの人に損害を与えるだろうと、彼は述べた。
公開される文書をまだ読んでもいないのに、そのような判断を下したということは、アッペンツェラーが何も知ろうとしないことを表している(P356)。

ウィキリークスの批判をする人たちは、文書公開は民主主義をおびやかすものだと主張している。だが、もしかすると、まったく逆なのではないだろうか?一部のメディアが政権と協力しあうのは危険だ。本来は互いを監視し合うことが役割のはずのメディアと政治という二つの軸が手を結ぶことになるという印象が強まれば、この相互監視という構造の効果や正当性への疑問が高まるだけだろう。一部のメディアが監視の役割を引き受けようとしないため、政治とメディアの協力関係によるチェック・アンド・バランスというシステムへの信頼も失われていく。機密文書の公開そのものよりも、ジャーナリズムの機能麻痺のほうが、民主主義を脅かすのかもしれない(P358)。