perfumeと平沢進

perfume考

一年半ほど前から(中田ヤスタカ自体はもうちょっと前だけど)、「これは来るッ」思い続けていたperfumeが紅白にでるらしい。めでたい。

年末に紅白歌合戦を見ながらそばをたぐるのは、福田家の伝統なので年末は楽しみが一つ増えた。

にしても、ついに自分の好きなアーティストが紅白に出れるようになったのは嬉しい。一般受けしないものが多いので・・・。
ということは、いつかあの平沢進御大も紅白にいらっしゃる日がくるのだろうか。前の世紀から個人的に熱愛・崇拝しているのだが、世間が分かる日が来るだろうか。いや、中田ヤスタカがアリなんだから、平沢御大だって十分アリである(どういう意味?)。

俺に言わせりゃ、perfume及び中田ヤスタカが奏でているのは「人類の進歩と調和」だ(実際にcapsuleの曲目にそういうタイトルはある)。無機質なbeatとそれに調和する人間というのがperfumeだ(なので、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」はその黎明期と思われ)。

だとすれば、俺に言わせりゃ、平沢御大が奏でているのは「真理と妄想」である。

perfumeが受け入れられる土壌があれば、平沢進もいける(ハズ・・・)。ただ「真理」の部分はいいんだけど、「妄想」部分が非常にきついんだよねぇ(P-MODELの「LAB=01」とか「Asura clock」とか

こりゃ、今世紀中も無理かな・・・

ちなみに、自分にとって平沢進は神と同義なのです。

『サラリーマン「再起動」マニュアル』

『サラリーマン「再起動」マニュアル』
大前研一
小学館

読後の感想
司令の知人のオススメということでしたが、どうしても、外的要因が内から変えるといった外圧の考え方が強いせいか、いまいちなじめない(でも好き)。
せっかく自分を変えるなら、そのモチベーションを内的なものに求めるような書き方をすればいいのになぁと思ってしまいます(でも好きなので読む)。

印象的なくだり
(前略)、円だけでなく、ドルとユーロにも分散して口座を開設することだ。海外投資が便利になることに加えて、円、ドル、ユーロの三つの通貨でそれぞれクレジットカードを作っておけば三つの通貨で決済できるから、その時その時に最も強い通貨で買い物をすればよい。つまり、日本にいながらにして、いつでも「世界最強の通貨」を使えるわけだ(P082)。

たとえば、パソコン事業部の業績が下がっているという時、その事業部の社員1人ひとりに「どうすればよいか?」と聞いたところで、決して有効な解決策は出てこない。なぜなら、ほとんどの人は自分が今までやってきたことを自己否定できないからだ。自己否定しないと、針路は変わらない。しかし今、企業や個人に自己否定する勇気があるか?自分を外部から客観的に見て、新しいルートを見いだす能力があるか?これが今、問われているのである(P101)。

プロジェクトは、対極的な発想をする人たちが仲良くやっていった時に最も成功するものだ。つまり論理思考の強い人と、エモーショナル型の人、発想型の人と数字の分析に強い人、というように全く違うタイプの人間を組み合わせることが一番大切なのである(P108)。

企業の理想は、大量に採用して早めにたくさん辞めさせることである。辞めさせる割合は、GEの経験では毎年15%だが、マッキンゼーの経験では毎年20%だ。マッキンゼーの場合は入社時に「あなたが5年後に生き残っている5分の1ですよ」と説明する。精鋭だけを残すからGEもマッキンゼーも強くなったのである(P216)。

リストラには、もう一つの問題として「エレベーターの論理」がある。エレベーターは定員オーバーになってブッーとブザーが鳴ったら、最後に乗った人が降りる。いわゆる「後乗り・先出し」というやつで、リストラも同じ。人員削減を進めていくと、後から入ってきた新しい人が先に辞めて、コストの高い古い人だけがる。平均年齢が高くなり、組織に活力がなくなる。だから、リストラをやればやるほど会社はおかしくなっていく(P218)。

1人暮らしの孤独を癒すビジネスも有望
方法はいろいろある。たとえば、働いていたら年金がもらえないという現行制度をやめる。65歳以上で働いている人には所得税をかけない。所得税をかけなければ、正味の収入が半分になっても、けっこう使いでがある。
あるいは、年金と労働収入をミックスする割合を高齢者が自分で決められるようにする。その場合、死ぬまでにトータルでもらえる金額を、働かずに年金だけをもらっている人と同じにしなければならない。つまり、定年後も働いていた人は年金をもらえる期間が短くなるから、それで損をしないよう、働き終わってから支給される額が増え、死ぬまでにトータルでもらえる年金額は変わらないようにするわけだ。おそらく、定年後も働いた高齢者は年金をもらう期間が半分ほどになるので、年金額も今までの想定額の2倍くらいにすべきだろう(P284)。

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『質問する力』 感想はこちら
『下剋上の時代を生き抜く即戦力の磨き方』 感想はこちら

本日2008年12月25日、無事退院いたしました。

本日2008年12月25日、無事退院いたしました。
ブログにコメントを下さった方、mixiにメッセージを送ってくださった方、直接携帯にメールを下さった方、お見舞いにいらしてくださった方、本当にご心配とご迷惑をおかけしました。
そして、心配してくださって本当にありがとうございました。
皆さんのおかげであっという間とはいかないまでも、相当早く退院することができました。

事の次第を簡単に書くと、
お酒飲む→転ぶ→頭蓋骨骨折→脳内出血→脳挫傷
と、まぁこんな感じです。
本当はもっとも~っと長い理由があるのですが、かいつまんで書くとこんだけ。ちょっとマヌケなので書くのははばかられたのですが…

それにしても最初から最後まできっちり意識があったので、大きな発見と反省点の多い入院となりました。
ことの始まりは11日。
発覚については、前日飲んで帰って来て何も感じることなく自宅でぐっすり寝ていたのですが、朝目が覚めるとなんかおかしい。
頭痛がひどいし、かなり吐き気もする(実際嘔吐した)。そして、大問題なのが、「耳から出血してる」ということ。
すぐに勤務先に「今日病院に行くので遅れます」と電話し(遅れるどころか即搬送、即集中治療室だったんですけどね)自分でタクシーを停めて、近くの総合病院へ。

初診にもかかわらず結構早めに看てもらえた(それでも一時間くらいかかったけど)ので、症状を話すと、じゃあCT撮ってみましょうか、となりました。
で、CT撮ってみると、先生が一転して表情を変え曇らせて、「君ね、頭蓋骨骨折して脳内出血してるから。ここの設備じゃダメだから、今すぐ救急車呼んで、専門機関に運ぶから、そこに寝てて」と言われてしまいました。この時点で、この病院から司令の勤務先に電話が入り、身元引受人として呼ばれたそうです。
自分の身柄はそのまま救急車で(しかもサイレン鳴らしてました)東京臨海病院の脳神経外科へ。
後に担当となるドクターから説明を受け、意識があることを確認した上で、集中治療室へ即入院となったのでした。

その後、実家からうちの母親が来たり、妹(本物)が見舞いに来たり、進地崇裕くんもお見舞いに来てくれ無事に回復したのでした。
と、まぁこれがちょっと長めの事の顛末でございます。

今回入院の体験を経て、本当に身に染みたのは

一つは、ベタだけど健康の大切さ。
結局、何をしようにも体力が必要です。
本当に失って初めて気づくものです。

第二に、気づいたことは、情報の伝播の形が変わったことです。
今回は特殊な事情だったので、自分から入院したことは電話やメール、手紙では知らせていないのですが、ブログやmixi、携帯電話を通じて多くの友人、知人から気遣いの連絡をもらいました。
ちなみに自分が発信できたのは、携帯電話からのブログの投稿だけなので、きちんと自分で自分の情報をコントロールすることができていた、といえるでしょう。
つまるところ、今後はこのブログ、もしくは自分のサイトで発表することが「優先」となったわけで、個人個人に直接連絡することは優先度が下がるでしょう。
そして、自分のメディアを持つということは、それに伴う責任も負うということであり、軽々しくブログを書けなくなってしまうなぁ(笑)とも思いました。
まぁ当然、自由と共に当然責任も負うんですけどね。

第三に、家族の重要性。
いまさらながら司令に感謝感謝です。身の回りの世話から準備、家事や仕事をしながら、毎日お見舞いに来てくれて本当に感謝の念に耐えません。そうそう、年末に二人で戸籍を作出してきます。そんなわけで、司令に足を向けて寝られません(笑

最後に思ったのは、やっぱまだ死ねない、ということ。
30歳になるまで結構自分の好きなお勉強や活動をしてきましたが、まだまだやりたいことが残っています。
まだ死ねません(笑
ブログが残っていれば、死後、自分の思いや考えが残るだろうし、それによって誰かに何かメッセージを送れるかもしれませんが、やはり生きてるうちに直接伝えたいです。そして誰かに影響を与えたい(良くも悪くも)。そういった考え、行動が世の中を少しでも楽しくし、いわゆる「ワクワクできらきら」になると信じてマス。

そんなわけで、無事生還しましたのでこれからもよろしゅう。

『セーラが町にやってきた』

『セーラが町にやってきた』
プレジデント社
清野由美

読後の感想
セーラの影響で長野県小布施町の街づくりがどのように変わっていくのか変遷の様子が分かりやすく読み物として面白く読めました。古い考え方が変化するきっかけは外的なものでしたが、本書のセーラの場合のように、正に外から内に入り込み、内部から変わっていく様子は読んでいて心地よく、非常に上手に成功した好例だと感じました。本物を追及する姿勢には激しく共感しました。

印象的なくだり
目指す相手が留守だとわかると、今度は「何時に帰っていらっしゃりますか」。何時になるかわからないと言われたら、次は「ではどちらに電話をかければお話できますか」「どこに出向けばお会いできますか」。とにかくアポを取る相手と最短、かつ直接に話ができるまで、意志疎通の困難をモノともしないし、自分の立場、用件を繰り返すこともまるでいとわない(P066)。

(前略)、もてなしの返礼として、アン王女が日本側に贈ったのは長野オリンピックを記念して英国が制作した騎士の刀剣である。ヨーロッパでは剣をやり取りする時には、それで両者の縁を切らぬよう、剣を贈られた側がコインを差し出す習慣があるという。そこで、日本側の代表として市村次夫がその剣を賜った際には、コインの代わりに市村家に伝わる江戸時代の古銭を用意した(P073)。

結局、本物とはこだわりだけでなく、長い目で見ると採算面でも”お得”なのだ(P102)。

理不尽だと思った時は、怒るのがいい。悲しみは人を立ち止まらせるが、怒りは前進をうながす(P132)。

セーラにとって桝一の「商品」とは、陳列棚に並んだ酒だけではなく、店の歴史、空間、そこで働く自分たち全部を指すのであった(P142)。
「たとえば今、日本から自動車メーカーが一社くらいなくなっても、ほかのメーカーがさまざまな車を出しているのだから、消費者はさして困らないでしょう。同じように、小布施の町から小布施堂がなくなっても、消費者は困らない。メーカーが作り出すモノは日本ではもはや飽和状態で、クールに考えれば企業は代替がいくらでもある。じゃあ、そんな時代に社長は何ができるか。それを考えると、会社に「存在感」があるという付加価値を与え、そこを高めていくこと、という新しい基準に行き着くんです。「あの会社があると世の中が明るくなる」「楽しくなる」。表現は簡単ですが、人々にそう思われ、語られることが、二十一世紀には、企業の大きな存在理由になっていくはずです」(P150-151)

「ア・ラ・小布施」企画部長の関悦子は、自身も「小布施国際音楽祭」などのイベントに携わる身だ。その経験から出る言葉は、「おもしろそうな企画を立てることは、本当は誰にでもできる。肝心なのは行動力、気力、体力、経済力、そして忍耐力。この五つが揃って、やっとイベントは実現する」(P204)。