『朝の知的生活術』

朝の知的生活術
講談社
現代情報工学研究会

読後の感想
 多くの事例を紹介しているのですが、伝聞が多く、あまり説得的ではありませんでした。
 早起きの効用という結果ではなく、方法・手段についての記述があればもっとよかったのになぁと思いました。
 文章は分かりやすく読みやすいです。
何で早起きがいいのか?と思っている人には有用だと思いました。
 研究会名義になっていますが実際の執筆は、松本薫さんお一人でされているみたいです(取材は他の人も加わっているようですが)。

印象的なくだり
豪華な朝食は、家族のきずなを深める要は、お互いが一緒にいて楽しい時間をつくればいいんです。
その点、朝食をおいしくすることは、かなりの効果があるはずです(P149)。

どんなに無理をしたところで、自分に与えられた時間が増えるわけではない。
減るわけでもない。
だとしたら、その与えられた時間内での自分の人生の過ごし方を、客観的に見直してみることがスタートだ(P222)。

過去に読んだ類似の本と感想
『早起きは自分を賢くする』船井幸雄 感想はこちら
『「朝がつらい」がなくなる本』梶村尚史 感想はこちら
『朝からシャキッと仕事ができる!2倍熟睡法』井上昌次郎 感想はこちら

後生畏るべし

先ほどの『台湾人と日本人』で、今年きちんと読んでレビューまで書いた本は50冊になりました(適当に読んだ本や、未レビューも含めるともっと多いのですが(笑))。

目安として、一年で100冊の目標は達成できそうなのですが、幾つか反省。

一、いい本ほど、早めに抜書き、感想を書かなければならない。
→いい本=印象的なくだりがたくさんある=抜書きの量が多い→後回しといった悪循環。
この悪循環を断ち切るためには、読んだ本から順番書いていくルール厳守です。
あと、なるべく隙間時間を利用すること。
『7つの習慣』なんてもう三ヶ月も机の上に置きっぱなしなのです…。

一、駄目な本は、容赦なく簡潔に。
自分は、きちんと読んでいるのだから、響かない本ならしょうがない。

それにしても、きちんと記録をつけるようになって手間暇はかかるけど、記録をつける楽しみのせいか、読む量は増えました。
また、読んだ本の内容などもかなり残るようになったので、歩留まりも良くなった気がします。
この調子、この調子。

『台湾人と日本人』

台湾人と日本人―日本人に知ってほしいこと
総合法令出版
謝雅梅

読後の感想
 台湾人が書いた「台湾人とは?」を知りたくて読み始めました。
先日旅行で台湾を訪れたのですが、行く前と行ってきた後ではかなり印象が変わり、「また行きたいな」と思える国でした。
 かつて日本の制度や教育がなされていた名残とも思える部分も散見でき、読んでいて、郷愁を感じる部分もありました。
 一番の肝は、やはりその複雑な国の成り立ちだと感じました。
「自分の国籍は何なのか」と悩むのはとても不幸で悲しいことですね。
 もっと台湾のことを知りたいと思わせる本でした。

印象的なくだり

唯一日本を感じさせてくれたのは、日本人の先生たちと亜熱帯の台湾では絶対に味わえない秋と冬の風景でした(P029)。

日本人はどこへ行っても群れたがる習慣があるといわれていますが、実際には台湾人、中国人、韓国人の間にもこのような習慣が見られます。
同じ国同士なら考え方が近いし言葉にも支障がないのでどうしても集まってしまいます(P031)。

台湾の官僚、政治家は半分以上、外国の修士号や博士号を持っていることからも分かるように、台湾社会では学歴が高ければ高いほど有利です。
だから、台湾人はより高い学歴を求めて次から次へと海外へ飛び立っていきます(P039)。

思えば、会社に入って初めて迎えた正月、ある上司から年賀状が届きました。
何という礼儀を重んじる日本人だろうと思いながら、裏に書かれていた文字を見ると、「今年はもっと厳しくなっていくと思うので、覚悟してください」と書かれていました。
私は面喰らい、もう大人なのになぜそこまでいわれなければいけないのかと、怒りでいっぱいになりました。
その後、その上司の率直な性格が分かり、特に悪気はなかったということが理解できました。
しかし、当時の、日本人の本音と建て前が区別できなかった私には、その言葉を理解できませんでした。
むしろ、私の反感をかってしまったのです。
抵抗心が強い私にとってそれは逆効果でした(P060)。

台湾人とうまくつき合うには、まずこの「面子思考」を知ることをおすすめしたいと思います(P061)。

台湾ではその教育を「国民党教育」「国民党政治教育」と名づけています。
文字通り、国民党の都合によってつくられた教育を指しています。
たとえば、モンゴルは一九二一年に中国から独立、六一年には国連にも加盟し、現在一二〇カ国と外交関係を持っていますが、にもかかわらず、九六年まで台湾の中華民国全図にはモンゴルがまだ含まれていました。
その地図を信じて疑わなかった私は、日本に来てから、「モンゴルは中国の一部か、独立国か」という問題で、日本の友達と口論になりました。
それを思い出すたび、なんというひどい教育だとつくづく感じます(P071)。

台湾では「男児有涙不軽弾」という言葉があるように、男性は簡単に涙は見せません。
台湾人男性にとって涙とは弱者の象徴です。そして、小さいときから男性は軍隊に入り、国を守る義務があると教育されてきたせいでしょうか、だれもが弱者の象徴である涙を嫌います。だから、意地でも格好つけて人の前では泣きません(P186)。

私たちアジア人にとって、欧米人がみんな似たような顔をし、区別がつかないのと同じように、欧米人も私たちが日本人なのか韓国人なのか中国系人なのかを判別するのが難しいようです。
だから、日本のことをちょっと勉強すると、すぐそれは日本人の特徴だとか不思議なところだとか決めつけ、誤解します。
それはある程度しかたがありません。
しかし、日本人自身やアジア人までも欧米人が書き立てたものを基準にして、日本や日本人を判断してしまうのはおかしいと思います(P212)。

『「心の傷」は言ったもん勝ち』

「心の傷」は言ったもん勝ち
中嶋聡
新潮社

読後の感想
 タイトル自体は、若干攻撃的ですが、内容はとてもひたむきで心に残る内容でした。
内容を簡単にまとめるなら、「もっとよく考えて、努力してから、モノを言え」ということでしょうか。
とにもかくにも、世間には無責任で主観的にモノを言う人間が多すぎです。
そして、その内容が「心に傷を受けた」類のものであるなら、なぜかその内容が「絶対に正しい」かのように、のさばってしまうのです。
 そんな現状について一石を投じる内容でした。
 5章の「被害者帝国主義」は、絶望的な気持ちになれるのでオススメ。
 逆に、7章の「精神力を鍛えよう」はとても元気になります。
 特に中に出てきた、故西本育夫さんのお話は努力の大切さを教えてくれました。
何度も書くようですが、タイトルで脊髄反射的に批判しては大局を見誤りかねないと感じました。
是非落ち着いて読んで欲しい本です。

印象的なくだり

「心に傷を受けた」と宣言したら、あとはやりたい放題。
詳しい検証もなく、一方的に相手を加害者と断罪する-そんな「エセ被害者」がのさばっている現代日本。
PTSD、適応・パニック障害から、セクハラ、痴漢冤罪、医療訴訟まで、あらゆる場面で「傷ついた」と言い分が絶対視されている。
そう、「被害者帝国主義の時代」が到来したのだ(カバー見返し)。

もともと人間の行為というものは、その場の性質や、そこでの人間関係の性質をみなければ、その意味も善悪も判断できません。
いまでは、何かそれらしい発言や行為があると、「あっ、それセクハラだよ」などという人がいます。
子供でも、先生のそれらしい発言や行為をみつけると「先生、それセクハラ」などといって、いきなり先生-生徒という垂直な関係を飛び越えて、対等な人間同士という立場で先生を注意したり非難したりすることができます。
しかし、このような発言や行為の断片的なとらえ方は間違っています。
全体として悪意ある文脈が伴っていなければ、問題にするにあたらないとするのが判断の原則であるべきでしょう。
とくに相手をおとしめたり、変ないたずらをしたりしようとして行ったものではなく、自然な状況で行われた発言や行為であれば、そうそう法に触れたり、むずかしい規則に触れたりするようなものであるはずがないでしょう(P065)。

(前略)大変ショックを感じたという、それだけのことで、誰にでもありそうな行為の評価が定まり、しかもそれが一人の人間の社会的生命を抹殺するほどの影響を与える、ということがあってよいものでしょうか(P073)。

被害者がすべてを決める
(前略)二次被害の防止などの理由で、その検証はいっさいされず、被害者がいやな思いをしたと言っているのだからとにかくセクハラだ、とされてしまうのが普通です。
ここには、「被害者がセクハラと言ったらとにかくセクハラ」という、恐ろしい構造があるのです。
近頃は子供でも、誰に教えられるのか、よく無邪気にそう口にします。
しかし、そう言う人の多くは、この構造の持つ恐ろしさに十分には気づいていません。
場合によっては悪意にもとづいて、人を陥れるためにセクハラという口実が用いられる、あるいは政治抗争に利用される、という可能性さえありえます。
同じことは、いじめでもよく言われます。
「相手がいじめと感じたらそれはいじめなんだよ」などといわれます。
一見すると、いじめられる弱い人を最大限に救うような、ありがたい言葉のように見えます。
しかし、ひとたび思いがけず「加害者」の立場におかれた人に対しては、この構造はその恐ろしさを遺憾なく発揮します(P073-74)。

本来、自分の感じた不快感が問題だと思うなら、それを健康診断のもつ社会的意味や、他者がそれに対して行っている意味づけと並べて置いてみるべきです。
それでもやはり自分の感じた不快感には社会的・公共的な意味があり、放置できないという結論に達したなら、そこではじめで言挙げすべきものです。
たんなる不快感の言挙げは、わがままと非難されても仕方のないものであるはずであり、その点の葛藤を経て、問題にするかどうかを決めるべきものです。
ところが、「セクハラ」というレッテルの力がもたらす、本人たちのみならずまわりの人々もセクハラの訴えイコール「その原因を作った者が絶対に悪い」と信じ込んでいるという事実によって、物事を主張することに伴う葛藤がバイパスされてしまっています。
このため、たんなる自分の主観的な思いの吐露にすぎないような、安易な主張が許される結果になっているのです。
そればかりではありません。このような言葉を使って、意図的にある見方をすることによって、自分の有利な結論へと誘導していこうという傾向も感じられます(P081-082)。

自分で決めるというのは、自分の責任において決めるということでしょう。
その責任には、必要なことがらを自分で医師に質問する責任や、もっと詳しく知りたいのなら自分で図書館やインターネットを通じて調べる責任というものも、含まれるのではないでしょうか。
C型肝炎の発症から肝癌の発症まで五年以上もあったのなら、なおさらでしょう。
もしそうでないなら、自分で決めるということにいったいどれほどの意味があるのでしょうか。
「はい」とか「いいえ」と返事をしておきながら、結果が悪ければ「知らされていなかった」と文句を言えるなら、自己決定権という大げさな言葉が泣こうというものです(P101)。

「にもかかわらず」の能力
ドイツには、「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うことである」という言葉があるそうです。
これを敷衍して、精神力とは「にもかかららず」の能力だと言ってよいだろうと思います。
自分にはとても無理だと思いがちのところで、「にもかかわらず」高い目標を維持し、がんばる。
悔しくて泣きそうな気分である「にもかかわらず」、相手を思いやって感想戦(局後の検討)に応じ、笑顔を見せる。
これはほんとうに高貴なあり方だと思います(P166)。