『ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か』

『ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か』
ダイヤモンド社
エリヤフ ゴールドラット, 三本木 亮

読後の感想
制約条件の理論を使って、工場を立て直すという過程を小説仕立てで書いた本です。
一般的には工場を立て直す過程の理論に着目するのかもしれませんが、個人としては、理論の師であるジョナとの関係について興味を惹かれました。
ジョナは、答えを決して教えず、本人に考えさせながら答えを導く方法を取っています。
すぐに答えを与えるのでは、身に付かないし、何より応用が利かずその場限りになってしまうと考えたからだと感じました。
理論も素晴らしいのですが、この教え導く過程に強く印象を受けた作品でした。
形式としては、過去に読んだ『V字回復の経営』三枝匡著を髣髴とさせるないようでした。
向上の経営の様子が気になるのでわくわくでサクサク読めます。

印象的なくだり
ノートに三つの評価指標を書き出した。
純利益、投資収益率、それにキャッシュフロー。
会社がお金を儲けているかどうかを知るために必要な指標だ(P079)。

「(前略)、三つの定義に全部『お金』という言葉が含まれている」彼が言った。
「スループットは、入ってくるお金。在庫は、現在製造プロセスの中に溜まっているお金。作業経費は、スループットを実現するために支払わなければいけないお金。入ってくるお金、中に溜まっているお金、それから出ていくお金、それぞれに指標があるわけですか」(P115)。

「ボトルネックとは、その処理能力が、与えられている仕事量と同じか、それ以下のリソースのことだ。
非ボトルネックは、逆に与えられている仕事量よりも処理能力が大きいリソースのことだ。」(P217)

「(前略)、これからは、仕事のできる人間しかボトルネックを担当させない」(P294)

一、誤ったポリシー、つまり制約条件をすばやく見つけ出す。
二、副産物として破壊的な問題を引き起こすことのない新しいポリシーを策定する。
三、社内から抵抗があっても、これに屈しない導入計画を構築する(P531)。

TOC(Theory of Constraints=制約条件の理論)
まずTOCは「システム改善のツール」であることが言える。
TOCは、現場での個別の工程の生産性や品質の改善ツールではない。
あくまでも企業とか工場全体を一つのシステムと見なし、そのシステムの目的を達成するための改善方法である。
博士は、企業の究極の目的が「現在から将来にかけて金を儲け続けること」と定義した。
企業が金を儲けるには、スループットを増やすか、在庫を減らすか、経費を減らすという三つの方法しかない(P548)。

ボトルネックが有る場合、工場全体の生産量はボトルネックの生産能力で決まってしまう(P549)。

過去に読んだ似たような形式の本
『V字回復の経営』三枝匡 感想はコチラ

『考具―考えるための道具、持っていますか? 』

考具―考えるための道具、持っていますか?
加藤昌治

読後の感想
日ごろ思いついても流れていってしまうフローの情報をいかにせき止めて形にするか、という点に重点を置いて書かれた本だと感じました。
視点をずらす、などちょっとした工夫の積み重ねが大きな差を生むことを本を通じて教えてくれているようで、気持ちが暖かくなりながら読みました。
あとがきの「読んで、分かって、やらないこと」のくだりにドキッとした人は多いことでしょう。
自戒の意味を込めて、また読みたい本です。
企画書について中心的に書かれていますが、決して企画だけにしか通じない内容ではありません。

印象的なくだり

人の話を聴くことのもう一つの効能は、他の誰かの生活をほんのヒトコマですが共有できることにあります(P059)。

同じことを何度もメモしてしまうこともよくあります。
本当に物覚えが悪い……と落ち込みますが、仕方ない。
また出会えて幸運を喜んで、メモしておきましょう。
きっと自分にとってそれだけ重要な情報なんですね(P063)。

企画が実施されたとき、何がどうなっているのか?
何かを製作したとしたなら、それはどんな姿・形をしているのか?
プレゼンしているあなたがイメージできないのに、話を聞いただけの相手が想像図を頭の中でうまく結べるはずがありません(P179)。

自分が描いている「絵」と相手の「絵」が同じになったら、あなたの企画書とプレゼンテーションは大成功です(P190)。

言葉で伝えられる状況になかったり、相手にとってあまりにかけ離れた世界を創造してもらわなければならないのなら、補足説明をしてビジュアルをつけてあげたいところです。
予算があれば、ゼロから起こした想像図。
なければ似ているもの、世界観を伝えられるような写真が威力を発揮します(P190)。

『台湾 したたかな隣人』

『台湾 したたかな隣人』
集英社
酒井亨

読後の感想
やや民進党よりの記述が多い点を割り引いても、今の台湾の政治が分かりやすくまとめられている本でした。
特に、政党の成り立ちまで立ち戻った記述は、理解の大きな手助けになりました。
全体としての視点が、市民の立場より政治を見るという見方なのは好印象。
視点が変わるとこうも評価が変わることを教えてくれました。

印象的なくだり
実際、台湾人と仕事をしていると、イベントを計画するときなど、頻繁に日程を大幅に変えたりしている。
しかもその場になっても順序を変えたり、司会者を変えたりする。
最初は閉口したものだが、それは一方では臨機応変で危機にも対処しやすいということでもある。
民進党がたびたび失敗に直面してきたのに、挫折せずに、すぐに気を取りなおし、態勢を立てなおすことができるのは、そうした臨機応変さにあるともいえる(P041-042)。

台湾の民主化の原動力となったのは、活発な社会運動と市民社会だったと考える。
そうした基盤があったからこそ、台湾は順調に民主化を進めることが可能だったのであり、民進党を与党に押し上げることにもなったのである(P050)。

独裁者・蒋経国の穏便な対応については、大局にたったリベラルなものと評価する見方がどういうわけか日本にはあるが、それは見当違いというものだろう。
背景には、環境保護、人権擁護運動など市民社会側の攻勢が、もはや独裁政権の力では抑えつけることができなくなっていた、という情勢があったのである(P080)。

「総統は陳水扁、立法委員は国民党」という人がかなりいるということは、「ねじれ」や「一貫性のなさ」にもみえる。
だが、実際にはそうではない。
要するに、国民党が「中国国民党」であるのは中央本部や台北市だけの話で、一皮剥けば、つまり中南部の地方基層レベルでは国民党もただの地元密着型の地方派閥の連合体でしかない(P148)。

台湾の法制度では地方自治体の権限はそれほど強くはない。
台湾の「県」というのは日本の県と同格ではなく、日本の町村ほどの権限もない。
だから、県レベルで「両岸関係」は争点にもならないし、考えられもしないのである(P161)。

そもそも「台湾は独立国家ではなく、潜在的に中国のもの」という「一つの中国論」はもともと米国が考案したものであって、中国側から提案したものではない。
台湾が民主化して中国と異なる国家として動いている現在でも、米国が時代遅れのこの論に固執するのは、米国の対中戦略と関係がある。
米国は中国全体を民主化して、親米政権にすることを狙っている。
そのために台湾の独立を認めず、曖昧な状態にすることで、中国を米国との交渉につなぎとめておくことができる。
また台湾の地位が曖昧であれば、中台間で緊張が起こり、米国は台湾に武器を売りつけて稼ぐこともできるし、中国に併合されたくない台湾は米国の言うことを聞かざるをえない。
まさに一石二鳥である。
逆に台湾の地位を明確に独立国家と認めた場合、中台の緊張はなくなり、台湾は必ずしも米国の言いなりになる必要もなくなる。
米国にとっては台湾は曖昧にしておくに限るのだ(P180-181)。

戦後、日本は五一年署名のサンフランシスコ平和条約によって台湾を正式に「放棄」した。
同条約には、台湾の帰属先は明記されておらず、台湾の地位は未定となっている(P194)。

『男30代、悔いなく生きる約束事!―人生の先輩から35通の手紙』

男30代、悔いなく生きる約束事!―人生の先輩から35通の手紙
三笠書房
船井幸雄

読後の感想
せっかく分かりやすくていい本なのに響かないのは何故なんでしょう。
多くのいいことが、雑然と羅列されている感じを受けてしまいます。
もっと骨子が一本通るような文章だと良かったのですが。
内容についてはよくある話。別に30代に限ったことではありませんでした。

印象的なくだり

現状への不平不満や否定は、活力を生み出すことよりも、自己弁護や逃避につながり、周囲の人たちを不愉快にすることが多く、たまたま、それによって活力を生んだとしても、人生を上手に生きるうえで最も大きな条件である、他の人々からの応援を失うことになり、決して得策ではない。
何か問題が起こるたびに自己弁護する人がいるが、それは自分の無能を証明するだけである(P051)。

一人の人間の能力など知れたものだ。
また、人生も無限ではない。時間は限られてるし、会える人も限られている。
したがって、体験しようにもできないことがたくさんある。
それを補ってくれるのが読書である。読書によって、著者の学んだこと
体験したことを自分のものとすることができるからだ(P070)。

私は、すべての人の言動は、その人の立場ではすべて正しいと思っている。
したがって、なるべく多くの人の言動を、「あれも正しいのだ」と肯定し得るように努力するのが、人として生まれてきた以上、人生の挑戦目標であると考えている(P098)。

過去に読んだ同じ著者の本と感想
『早起きは自分を賢くする』 感想はコチラ

『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
光文社
長山靖生

読後の感想
 単なる自己批判本かと思いきや、その実は実感に基づく強烈な教育批判の本でした。
もちろん単純な批判ではなく、良くするための批判で、とても有益です。
 子供に勉強させるのに、そもそも大人からしてダメである、との内容の文章はドキッとしました。自分の身に置き換えて読むと、思うところが多々あります。
学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)
努力と報酬が反比例する社会(P209)
 の二つの章は、秀逸です。
 この本を読むと、日々の努力の大切さが本当に身に染みます。

印象的なくだり

教育改革もまた格差を拡大する方向へ向かっている。
なぜそうなるかというと、(中略)、単純にいって改革に携わる人々は、政治家や官僚や諮問委員会に招かれる有識者(学者や財界の代表)にしても、みな「勝ち組」の人たちだからだ。彼らにとって二極化は、自分たちの利益の増加を意味する。
とはいえ、これは彼らが自分たちの私利私欲のために改革を利用しているという意味ではない。
そういうつもりがなくても、指導者層からは彼ら自身が不利益を被るような発想は、生まれ得ないということだけだ(P015)。

結局のところ、ペーパー試験による評価は、その人の知識量・学力を測定する方法としては、相対的に不公正な要素が入り難いという意味で、適正な手段ということになるのだろう(P027)。

しかし現在の日本人の不勉強ぶりは、子供にお勉強させれば、それでいいというようなレベルを、とうに超えている。
自戒を込めていえば、すでに大人からしてダメである。本当にお勉強すべきなのは、我々大人の側、親の側なのではないか。
孟母三遷の教えというのがあるが、学校の近くに引っ越すよりも親自身が学ぶ姿勢を示してこそ、子供に「がんばれ」とか「やれば出来る」と言えるし、その言葉は子供に届くのではないか。
子供の顔色を窺って夜食を作るよりも、一つのテーブルで子供が勉強しているときに一緒に仕事に必要な専門書を積み上げて次々読破するのもいい。
子供に求める分、自らもリスクを担うのである(P030)。

「やればできる」とは「やらなければできない」の虚飾的告白なのである(P038)。

私は「ゆとり教育」の理想それ自体が悪い、とは思っていない。
だが問題は、意欲や思考力、表現力などを評価するのはきわめて難しいという点にある。
それは現場の教員にとっても、過大な期待と責任を負わせるものなのではないだろうか。
そもそも私などは、子供の意欲や思考力それ自体を教員が判定し得るという考えそのものに、空恐ろしいものを感じてしまう(P040)。

創造性は、基礎的な知識や思考訓練があってこそ、発揮されるものである。
言語を知らない人間は、潜在的想像力があったとしても、他人の前で意見を述べたり文章を書くことはできない(P041)。

ゆとり教育
これは人間の学習意欲(向上心)や思考能力の「右肩上がり」を前提にしている。
好意的に解釈すると「ゆとり教育」を立案した人々は、根が真面目で勤勉な性格だから、全ての人間もそうに違いないと思い込んでいるのかもしれない。
これは実際にある話で、ほとんど挫折を経験することなくエリートコースを歩んできた官僚や学者には、意外と性格がよく、話していて感じのいい人たちが多い。
しかも謙虚。だから彼らは、自分たちが特別な努力家だとは考えておらず、「すべての人間は、やればできる」という理想を信じている(P044)。

学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)

学校や社会で問題にされている「本離れ」というのはエンターテインメントを中心にした読書全般を指しているわけではない。
古典的な文学作品や思想・哲学の基本図書など、いわゆる「いい本」が、読書問題の対象であって、それらが読まれなくなったということが問題なのである。
それならたしかに、読まれなくなっているとの実感がある(P070)。

高校生が凝るもののなかで、いちばん受験に差し障りがあるのは読書だ、と今でも私は思っている。
はまっているのがバイクやバンドなら、遊んでいるのは一目瞭然だ。
しかし読書となると、自室で勉強をしているふりをしながら、いくらでも本が読める
(P076)。

日本だけではなく、欧米列強と呼ばれたような近代国家もまた、その「かのように」を提示する道徳規範の母胎を国家と呼び、信奉する人々の集団を国民と称した。
ここに国民国家が、近代的自我を持った個人の側にとっても、一つの「救済」であった理由がほの見える。
精神的統合を基盤とする近代国家は、「神の死」以降を生きる個人に、仮借にもせよ共通認識の舞台を提供したのである。
近代国家が「国語」を管理しようとしたのもまた、当然だった。
言葉は思考を規定する。そして言葉は、神に代わって、「かのように」な世界を支配する(P104)。

(前略)倫理に限ってみても、「倫理学について考える」ことと「倫理的に生きる」のは別物である。
だから倫理学に詳しい人が、倫理的でない場合だって、当然ある。実際、倫理学の知識は豊かなのに、その行動はどう見ても倫理的とはいえない知識人がいることを、われわれは知っている。
しかしその場合、倫理的でないのはその人個人であって、彼が知っているところの倫理学の責任ではない(P105)。

(前略)子供の教育は「平等性の確保」の点からも学校に任せたほうがよく、その道徳教育の内容が偏ったものにならないようにするためには、子供を教育する学校や文部科学省の行政をしっかり市民社会が監視すればいい、という考え方もあるかもしれない。
しかし、それはどう考えても甘い。
だいたい自分の子供もろくに監督できない人間に、どうして学校の監視、監督、助言が出来ようか。
それが出来るくらいのしっかしりた親、社会的な発言力も影響力もあるほどの人物なら、そもそも今時の公立学校に子供を通わせてはいないという、序章や第一章で述べた格差問題に立ち戻ってしまう(P107)。

あらゆる教育内容は、教える者自らが学ぶ情熱を持っていることを前提にしてしか、伝わないものだが、特に倫理観はそういうものだ(P119)。

いかなる理想にも与しないという思想は、ニヒリズムではなく、理想が人間のためにあるということ、決して理想のために人間がいるわけではないという当たり前のことを、断じて忘れまいというユマニスムの思想なのである。
日本の教育、ひいては日本社会に最も欠けているのは、自分自身で考え、理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練のほうだ。
思考する訓練を積んでいない者に、よく討議されたわけでもない結論を押しつけるような教育が施されているのが、最大の問題なのだ
(P157-158)。

信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。
考えるのをやめにして、あとは他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。
そしてしばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりでなく、加害者にもなってしまう(P172)。

努力と報酬が反比例する社会(P209)